実質的な統治者だったレオポルディナ
ブラジル育ちで帝王学を学んでいなかったペドロ摂政王子には、欧州やポルトガルとの関係に間して、正妻マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア(1797年―1826年)なくては立ちゆかなかった。
彼女はオーストリア皇帝フランツ1世の5人目の子どもで、ウィーンで生まれたオーストリア人だ。いわゆる「ハプスブルク・ロートリンゲン家」の成員であり、姉はフランス皇帝ナポレオン1世に嫁いだ。幼い頃から学業熱心で植物学、蝶類や鉱物研究をし、フランス語、イタリア語、ラテン語に加え、ペドロ摂政王子と結婚するためにポ語も完全習得した。
だがペドロ摂政王子よりも1歳8カ月年上だった。しかも摂政王子には貴族として教養がなかった。だから彼女は急速に夫に対して影響力を増し、ブラジル独立に関わるすべての政治的な役割を彼女の助言に従っていたと言われる。
レオポルディナは、夫のブラジル永住を決意させるのに大きな貢献をしたほかに、事実上の「優秀な国家元首」と見なされていたと指摘する歴史家もいる。
彼女のパフォーマンスの多くは、幼少期から受けた英才教育の賜物だといわれる。ハプスブルク家という欧州貴族の出身で、ペドロ摂政王子にとっても知的・政治的な後見人だった。
1822年にペドロ摂政王子がサンパウロへの旅行をした際、レオポルディナが首都の留守を任され、摂政妃となっていた。
BBCブラジル9月7日付(https://www.bbc.com/portuguese/brasil-62809341)によれば、ブラジルを植民地に格下げするとの命令を受け取り、ボニファニオらと協議した摂政妃は、1822年9月2日に首都リオでブラジル独立を決断してその宣言書に摂政妃として署名し、同文書に関する次のような説得の手紙も書いた。
《ペドロ、ブラジルは火山のようです。宮殿にも革命家がいます。軍隊の将校でさえ革命家です。ポルトガルの裁判所は、あなたに即時出国を命じ、脅迫し、屈辱を与えます。(ブラジル)国家評議会は、あなたにとどまることを勧めています。女性として、そして妻としての私の心は、リスボンに向けて今出発すると不幸を予見します。[…] ブラジルはあなたの手で偉大な国になります。ブラジルはあなたを君主として望んでいます。あなたのサポートがあってもなくても、(ブラジルは)独立するでしょう。果実は熟しています。今摘み取らないと、腐ってしまう。[…] ペドロ、その瞬間があなたの人生で最も重要です。あなたがサンパウロですべきことは、ここで既に述べた通りです。あなたはブラジル全土の支持を得ています。ブラジル国民の意思に反してここにいるポルトガル兵は何もできません (apud OBERACKER, 1973, p. 281)。》
レオポルディナは夫に宛てた手紙の中で、優しく結論を出すよう促している。基本的に独立はもう決まっていて、あとは宣言するだけというお膳立てをしていた。
これに加えて、独立を推し進める論客ジョゼ・ボニファニオの手紙などを王家の御用達郵便配達人パウロ・ブレガロに持たせて、サンパウロ州にいるペドロ摂政王子に陸路で送った。
それを5日後に受け取ったのが、たまたまサンパウロ市イピランガの丘だった。摂政王子はそれらを読んで、妻が作った筋書き通りに、腕を振り上げて「独立宣言」をしたという流れだ。
つまり、実際のシナリオは、レオポルディナ摂政妃が決めてあった。それを追認して宣言をした。ブラジル独立に関して、決定的な役割を果たしたのは女性だった。
本来ならブラジル独立記念日は、摂政妃が署名した9月2日であってもおかしくない。
約1カ月後、同年10月12日、ペドロ摂政王子はブラジル帝国を建国し、ドン・ペドロ1世となった。
その後、サンパウロ、リオ、ミナスはすぐにそれに従ったが、北部、北東伯、南部ではポルトガルに従う抵抗部隊が残り、それが降伏したのが1824年だった。ポルトガルがブラジル独立を承認したのは1825年8月になってからだ。
レオポルディナ妃の御膳立てにより、この時、ペドロ王子は国民からは「建国の英雄」として賞讃された。
妊娠中の王妃の腹をけるペドロの悪行
このようなブラジルの政治におけるレオポルディナ妃の主導的な役割は、彼女が生涯を通じて家族や友人と交わした800通以上の手紙によって証明されている。
にも関わらず、独立宣言後、愛人ドミチラはペドロ皇帝の寵姫となって公にリオ宮廷に出入りするようになった。正妻レオポルディナ皇后には不条理なことに、ドミチラはペドロ1世の意向で皇后の第一女官に任命された。ドミチラが皇帝との間にもうけた庶子が貴族として取立てられるのを目の当たりにしなければならなかった。レオポルディナ皇后の娘たちは、当然のごとく皇帝の嫡出子とともに育てられた。
そんな1826年3月10日、彼の父であるポルトガル王ドン・ジョアン6世が59歳で亡くなっていた。その原因はまだ不明で、砒素中毒死を疑う歴史家もいる。その結果、長男であるペドロ皇帝にはポルトガル王家を継いで欲しいという声が本国で高まっていた。
1826年12月1日に、ペドロ皇帝は夫婦げんかの時に、妊娠中のレオポルディナ妃のお腹を多数回蹴り、死産が起きた。その10日後にリオのキンタ・ダ・ボア・ヴィスタにあるサンクリストヴァン宮殿でレオポルディナは他界した。
ペドロ皇帝の誤った対応とそれによる死産がまだ29歳だったレオポルディナ妃を死なせたと民衆は感じていた。
皇后崩御後、ペドロ皇帝はいかに無慈悲に皇后を扱ってきたかを悟り、ドミチラ との関係も崩壊し始めた。皇后は寵姫と違い、人気があり、誠実で、何の見返りも期待せずに皇帝を愛していたことを国民は知っていた。
ポルトガルの独立承認の翌年だ。「建国の英雄」から一転、ペドロ皇帝の評判は大きく下がった。
ペドロ皇帝の要求で、ドミチラ は1828年6月にリオを離れた。彼は再婚するために、義父オーストリア皇帝フランツ1世に誠心誠意説得を試み、手紙で「私の悪行は終焉しました。私は再びかつて犯した過ちを繰り返さないでしょう。私は後悔し、神に許しを請い続けています」と伝えた。だがフランツ1世は、娘が生前に耐えた行為に激しく立腹していた。
ペドロ1世の悪評は欧州各国にも広がり、王女たちは相次いで結婚の申し出を断った。彼の自尊心は傷つき、ドミチラ が宮廷に戻ることを一時許した。だが、2人目の皇后としてアメリー・ド・ボアルネ(ブラガンサ公爵夫人)と婚約すると、彼はドミチラ との関係をきっぱりと終わらせ、郷里のサンパウロ州に帰らせた。
2人目の皇后アメリーは優しく子供たちを愛し、皇帝の家族と国民が渇望した平穏をもたらしたと言われる。ペドロ皇帝はもう浮名を流すこともなくなり、妻に忠実になった。
この間、1825年12月、ブラジル最南端のアルゼンチンとの国境地帯でシスプラチン戦争が勃発していた。戦況が悪く、これが大きくペドロ皇帝の評判をさらに下げることになった。
1828年にイギリスとフランスの調停によってリオで和平会議が開かれた。アルゼンチンが国際河川ラ・プラタ川の両岸を領有することを嫌ったイギリスの強い圧力によって、アルゼンチンはブラジル帝国と1828年4月28日にモンテビデオ条約を結び、同河東岸はウルグアイ東方国として独立することになった。これは建国早々のペドロ皇帝には致命傷ともいえる打撃を与えた。
ブラジルを追われてポルトガル王に
そんな中、戦争債務などによる深刻な経済危機など一連の政治的過ちにより、1831年、ブラジル国内の政治的な騒乱を納めきることが出来ず、追い出されるように帝位を長男ペドロ・ダ・アルカンタラ(後のペドロ2世)に譲り、ペドロは英国軍艦に便乗して出国した。独立宣言からわずか9年だった。
ポルトガル本国に帰国し、ドン・ペドロ4世に即位した。弟のミゲルとポルトガル内戦(1828年―1834年)を戦い、ミゲルを亡命に追い込んだ。だが1834年、間もなくペドロもリスボンのケルス宮殿で結核により病死した。まだ35歳という若さだった。
ペドロが急死すると、アメリーは慈善活動と一人娘マリア・アメリアの養育に専念。アメリーはリスボンで亡くなった。
☆
現在ペドロ1世、最初の皇后レオポルディナ、2人目のアメリー、3人の遺体は共に、サンパウロ市の独立記念公園の中にある独立モニュメント(Monumento à Independência)地下室に仲良く納められている。
独立200周年を記念して、ペドロ1世のホルマリン漬け心臓が、ポルトガルから特別に一時的に貸し出された。だが心臓以外の遺体は、サンパウロ市の独立公園に安置されている。どうして別々になっているのか?
これは《なぜドン・ペドロ1世の心臓は体と別なのか》(https://brasilescola.uol.com.br/noticias/entenda-por-que-o-coracao-de-dom-pedro-i-foi-separado-de-seu-corpo/3128401.html)によれば、本人が生前に残した遺言に従っているのだという。
1834年、結核で余命僅かと自覚したペドロ4世は、自分が弟と戦ったこともあり、子孫が相続争いに巻き込まれないように全ての資産を遺言で規定した。その中で心臓は、自分が弟との内戦中に暮らした愛するポルト市の町に置いておくように決めた。
死後、心臓だけはポルト市のノッサ・セニョーラ・ダ・ラッパ教会の箱に納められた。それ以外の遺体は首都リスボンの墓地に埋葬された。ところが、ブラジル軍政政権が、国家の伝統や正統性を誇示するために1972年に遺体を当地に持ってきたため、バラバラになった経緯がある。
それ以来、今回の200周年で初めて両方がブラジルに揃った。
植民地ブラジルをポルトガルから独立させた皇帝が、自らの失態と失政により、そのブラジルから追い出されるように宗主国の王に戻るという歴史を歩んだ。
一つの人生で、大西洋を挟んだ別々の国を統治するというのは、世界史の中でも異例中の異例だろう。(終わり、深)