社会の国際化が進展して久しい昨今、日伯両国の文化、言語に通じる日系ブラジル人子弟にかかる期待は大きくなっている。本連載では今年7月から本紙記者となった松永エリケ記者(群馬出身、20歳、四世)が、「日本育ちの日系ブラジル人子弟の目線」から、彼らの現状と、彼らが社会で活躍していくためには何が必要なのかを探っていく。(編集部)
デカセギ定住化から30余年が経ち、1990年当時に日本へ移住した人の中には日本で家庭を築いた者も多い。記者自身も90年代後半に日本へ渡った両親のもと、群馬県で生まれた。3歳の時、両親が離婚し、母方の家族のいる長野県に移り、「長野県人」としての意識を持って育った。父は単身、ブラジルへ戻った。
地元にブラジル人学校はあったが、日本の教育を受けさせたいという母親の教育方針から、小学校は上郷小学校に通った。父方がイタリア系のため、容姿はハーフだが、日本語が出来、スポーツも得意だったからか、学校でいじめや差別にあうことはなかった。
小学校の時にポ語の塾に1年通ったが、ものすごく嫌だった。それもあって中学卒業時に親から「将来どうしたい」と言われて、「日本の高校に進みたい」と答えた。最初はバレー部、途中からバスケ部へ。成績は平均的だった。
2018年に飯田風越県立高校普通科に入学。好きなバスケを続け、部長になり、県大会ベスト16まで進んだ。
高1の夏休みに父に会いにブラジル旅行に行った。ブラジルに行くのは、この時3回目で、父とは7年ぶりの再会だった。その時父は「高校卒業したらどうしたい?」と尋ねてきた。「何となくだけど、大学に行きたいと思ってる」と答えると、「それならブラジルに来たらどうだ」と勧められた。
それまで自分の進路の選択肢の中にブラジルの大学へ進むという考えはなかった。父は一緒に住みたいという気持ちから勧めてくれたのだと思うが、自分の将来のことを考えるにつれ、自分の長所である語学をより磨くためには、ブラジルの大学へ進んだほうが良いと考えるようになり、渡伯を決意した。
21年の高校卒業後、すぐにブラジルへ渡るつもりだったが、コロナ禍ピークのブラジルへ行くことを心配した母に反対され、ワクチンの2回摂取が終わった11月に渡伯した。
着伯当初は、父の家に住みながら、家庭会話レベルのポルトガル語を向上させるため語学教室に通った。当地での就職活動時に何かと便利だろうと思い、日本語能力検定試験を受験した。試験会場で本紙記者に出会い、「日本語能力を活かしつつ、知見を広められる」という記者職に魅力を感じ、記者となった。ブラジルでは働きながら大学に通うのは一般的だ。来年からは予備校に通い、大学受験の準備をはじめる。
取材先では、日系ブラジル人子弟として、将来を期待してくれる人に出会うことも多い。記者自身、日系子弟の将来性を信じる者の一人ではあるが、自身の周囲には日本の学校に馴染めず帰伯し、現在進行形で行く末に悩んでいる者もおり、手放しに期待されることを喜べないのが本音だ。
今回の連載では、記者と境遇を同じくする日本育ちの20代の日系ブラジル人子弟を取材対象に、彼らの日本での生活と現在、「将来の夢」について聞き、私たち世代が今後の社会で活躍していくためには何が必要なのかを探っていきたい。(続く、松永エリケ記者)