連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第72話

 大学はサンパウロ・カトリック大学(PUC)物理科に予備校なしでストレートに入学した。夜間部なので昼間はアルバイトが出来た。姉のるり子と一緒にサンパウロ市内に下宿していた。一九八三年の初めころ、姉るり子のサンパウロ商工会議所退職の後任として、同所に勤めるようになった。
 最後は末っ子、三女のルーシー絵理子である。絵理子が生まれた頃から、我が家は破産騒動が始まり、学令期に達する頃まで泥沼の生活であったが、この辛い暗闇の期間、子供達は何かを感じ取っていたのだろうか。
 小学校から中学を卒業するまでの八年間、姉の恵美と同じ様にバルゼン・グランデに寄宿し、日本語を学び、近くのブラジル語学校で四時間の授業を受ける毎日であった。そして課外授業では岩本先生に剣道をじっくり教えられ、この剣道がその後、彼女の青春を支えて行くことになったのである。
 彼女が高校生の頃、私は父兄会の剣道部長をしていたのだが、一悶着があり、父兄会からの剣道部に風当りが強くなって、剣道部は国士館に移ることになった。その後、国士館剣道部は日本の国士館大学直来の先生方の指導を受けることになり、ブラジル剣道界で一躍その存在が大きくなってきたのである。絵理子もその国士館剣道部の主力選手となった。
 一九八四年の初頭、サンロッケの高校を終え、大学への進学を決めなければならない頃、日本の国士館大学への剣道留学の話しが持ち上がり、本人の希望もあって、その年の四月八日、やはり同じ年に高校を卒業した谷口レナット君と二人、国士館大学剣道部に入学した。学費などの面で優遇されてはいたが、それでも月に数万円の送金が必要だった。二年目からは奨学制度の恩典が適用される様になり、仕送りはほとんど要らなくなった。彼女もアルバイトをして節約に努めていた。
 二年目に入る頃、折角の大学生活も剣道のみではもったいないとの先生や友達の奨めもあって、短期大学国文学科へ入学する話になった。しかし日本の大学に入学するにはその前の十二年間の教育を受けねばならないのに、ブラジルの制度では十一年で高校卒業となり、一年不足することになる。それで、その為の一ヵ年の日本語の特訓を受けたのである。
 国士館短期大学国文学科の二年をおえて、中学校の教師の資格を取った。そして、四年間の剣道留学を終えてブラジルに帰って来たのであるが。大学生活も終わりに近づいた頃、日本語を教えて頂いたモジ・ダス・クルーゼス出身の岡田先生の紹介で、将来ブラジルで生活してみたいとの希望を持った青年を紹介された。それが今の彼女の夫、後藤慶君である。

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