《特別寄稿》漢字より難解なカタカナ語=日本語を学習する際の違和感=東京都  アンジェロ・イシ

戦前の国定教科書の中身

 私は日本語が大好きだが、“ニホン語”は嫌いだ。そして漢字や熟語よりも、カタカナ語(外来語)のほうが難しいと思っている。いったい、どういうことか。ゆっくり説明しよう。
 私は祖父母が戦前に日本からブラジルに移民し、サンパウロ市で生まれ育った日系3世である。これまで3度、異なる「日本語」を学習した。
 1度目は、私の家の近くにあった、「正風塾」という日本語塾に通った忘れがたい10年間である。ブラジルの公立の小・中学校は半日で授業が終わったので、週に5日間、毎日2時間、この塾に通った。
 私が入塾した頃にはすでに白髪だった山村先生がご自宅で開校していたこの塾は、驚くべきことに、まだ「サイタ サイタ サクラガサイタ」、「コイコイ シロコイ」、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」で始まる教科書を使用していた。
 二の巻、三の巻という具合に進んでいくと、漢字が登場したが、その漢字の難度が半端ではなかった。というのも、今では使われない「學」、「國」、「聲」などの旧字体を叩き込まれたのだ! 「聲という字は『耳』ががあるから意味があったのに、今の漢字は空っぽでなっとらん!」という山村先生の説教が今でも耳に残っている…。
 「こいつはいったい何歳なんだ」という声が聞こえてきそうだが、私は終戦から20年以上も経った1967年生まれだ。1970年代にこの大昔の教科書を使い続けていた日本語塾は皆無に等しかっただろう。シロも兵隊も、私にとってはリアリティに乏しかったが、「日本」に対する想像を掻き立てられたのは確かだ。

カタカナが読めないという衝撃

 塾通いを止めてしばらくブランクが空いたが、大学卒業後には日本への留学を決心し、その条件を揃えるべく日本語能力試験の1級に挑むことにした。ところがせっかく青春を犠牲にして(というのはもちろん冗談だが)「學習」した戦前の日本語がとうてい通用しないことに気づき、愕然とした。
 そこで現代日本語を教える塾に申し込み、脳内をリセットして「学」「国」「声」の漢字を覚えなおした。難度の高い旧字体を「忘れる」のは意外にも楽勝で、短期間で要領よく新字体を吸収した(その逆なら悲鳴を上げただろうが)。そして無事、サンパウロの総領事館で募集された文部省(今の文科省)による国費留学に合格し、1990年に来日した。
 ところが来日後にむしろ試練が待ち受けていた。私がそれまで猛特訓した「ニホン語」が思いのほか通じないことに気づいたのだ。新聞を開いてみると、個別の漢字は読めるのだが、その意味がまるでわからない。略された言葉や、コンテクストに明るくなければ解読できない記事が満載だった。
 さらに、最も簡単なはずのカタカナ語、すなわち外来語の乱用に大苦戦した。しかも、それらが過剰に略されているのだ。エアコン、リモコン、マザコン、パソコン、ゼネコン、ミスコン、ボディコン……コン、コン、コンですっかりコンラン(混乱)に陥った…。
 まだインターネットは普及しておらず、周囲にこの「コン」の意味を問いただしても、それぞれが全く異なる単語、すなわちコンディショナー、コントローラー、コンプレックス、コンピューター、コントラクター、コンテスト、そしてコンシャスの略語だと即答できる人はそう多くなかった。外来語辞典という優れものを見つけて一気に楽になったが、これで、冒頭で私が“ニホン語が嫌いだ”と書いた理由を分かっていただけただろう。

アルファベットからの超いい加減な変換

漢字の勉強をする子供

 カタカナ語がクセモノなのは、強引に省略されているからだけではない。アルファベットの言葉をカタカナに変換する基準があまりにも気まぐれでいい加減だからだ。私の持論では、多くの日本人が英語のリスニングやスピーキングが上達しないのは、「トンデモ外来語」が耳(脳内)にくっ付いて邪魔をしているからだ。
 例えば「駅のホーム」という怪しいカタカナ語がまかり通っているのがなぜなのか、首を傾げたくなる。自宅のホーム(home)も同じ「ホ」であるならば、「f」が入ったplatform(プラットフォーム)を略したformは「フォーム」と書くのが当たり前なのに!いや、もっと厳しく突っ込むならば、母音抜きの子音のみで終わる数々の外国語の単語をカタカナに変換した時点で、発音に致命傷を与えてしまっているのだ。
 多くの日本人が英語を話す時に失笑を誘ってしまうのは、カタカナのこの無駄な母音付きの発音が災いして、「m」(「ン」)で終わるべきところをわざわざ」「mu」(「ム」)と語尾に「u」が付いた発音をしてしまったり、「pla」が「pura」(「プラ」)となりがちだからだ。
 ついでに言えば、サッカー界のスターであるZicoがなぜ「ジーコ」なのか、理解に苦しむ(「Z」なら「ズィーコ」が自然だろう)。ジレンマもDilemmaで元々はDなのだから、「ディレンマ」にしないと、日本の皆さんはカタカナからアルファベットのスペルが復元できないだろう。「ジ」はあくまでもジャイアンやジーパンのように、gやjに限定すべきだと思うのだが…?
 ここで、私たちは不思議なパラドックスに気づくことになる。外国人にとっては、カタカタ語をマスターすることこそがネイティブ並みの日本語に近づく鍵となるが、日本人が英語を上達させるためには、逆に、どの程度カタカナを忘れられるかが決め手となるのだ。

上からの号令に応えるだけのダイバーシティ(多様性)は破綻する

 ところで、私のニホン語学習奮闘記から、何かヒントは得られるだろうか。
 私が日本語の学習意欲を維持できた理由は、日本語そのものの魅力はもちろんのこと、その先にある「日本」への憧れであった。
 また、私にもっと日本語を上達しなければと思わせたのは、同じく日本語を学習している者同士のライバル意識ではなかった。むしろサンパウロで近所や学校の友人や知人に二つの言語や複数のルーツやバックグラウンドを有する「バイリンガル予備軍」の仲間に恵まれていたからだと、今になって気づく。
 私の友人には「当たり前のように」家庭内でイタリア語を話すイタリア系ブラジル人やヘブライ語の塾に通うユダヤ系のブラジル人がいた。ドイツ系の友人がポルトガル語とドイツ語を操っても、誰も「すごいね、バイリンガルだね」と感心しなかった。親が幼い私を日本語塾に通わせたことを特別視する人もいなかった。
 これは間もなく開幕するサッカーのワールドカップでどの国を応援するかという非常に「日本的」な問いにもつながる。オリンピックでもそうだったが、日本に住む「外国人」たちは嫌になるほど、「日本とブラジルのどちらを応援するのか」という類いの質問を浴びせられる。
 ブラジルではドイツ系移民の子孫がドイツを応援しても、誰も非国民だと非難しない。私がブラジルと日本の両方を応援すると公言しても、矛盾していると責められる心配は無用だ。ハイフン付きアイデンティティ(何々系何々人、例えばItalian-Brazilian)が広く許容される、寛容な社会である。二者択一ではなく、どちらかへの忠誠心を強要する引き算の論理ではなく、多様性を尊重する足し算の論理なのだ。 
 今の日本では“グローバル人材を育てるのだ”とか“とにかく英語だ!”が上からの「号令」に聞こえ、不自然さがぬぐえない。SDGsという宿題で点数が必要だからというプレッシャーに追われて「ダイバーシティ」のアピールに躍起になっているので、あっという間に化けの皮が剥がれてしまう。
 社会全体で無理なく多言語や多文化を許容する心構えが一定の水準に達すれば、そしてダイバーシティを歓迎するコンセンサス(あれ、またコンから始まる言葉が出てきたぞ!)が得られた暁には、多くの人が「英コン」、すなわち英語コンプレックスから解かれる日が来るだろう。

 アンジェロ・イシさん(1967年サンパウロ市生まれ)が2カ月に1回の割合で本紙にコラムを寄稿することになった。イシさんは日系ブラジル人3世で、サンパウロ大学ジャーナリズム学科卒業。1990年に日本に国費留学、新潟大学大学院および東京大学大学院を経て、日本のポルトガル語新聞編集長を3年間務めた。
 日伯の移民やメディアを研究する社会学者。日本各地で国際交流や共生をテーマに数多くの講演を行う。公益財団法人海外日系人協会の常務理事。多文化共生施策に関する政府の複数の有識者会議で委員を務める。2004年から武蔵大学専任講師、2010年から同教授。
 日本で生活する日系ブラジル人という独自の視点から、日本の現在を読み解いていく。(編集部)

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