米軍がアラスカ撤退するオペレーションを訓練?
「米軍はいざという時に備えて、沖縄基地を捨てて、アラスカ基地まで撤退するオペレーションをこっそり訓練しているという噂です」。第7回世界のウチナーンチュ大会(10月31日~3日)の取材に沖縄県那覇市を訪れた際、地元住民からそんな噂話を聞き、腰が抜けそうなほど驚いた。
もちろんただの噂話だ。だがたとえそうだとしても「米軍が日本を捨ててアラスカまで撤退する」という想定自体が尋常ではない。本土では、そのような発想すること自体がタブーではないか。
おりしも第7回大会の開始1週間前、中国では異例の3期目となる習近平国家主席を党トップとする新最高指導部が発足したばかり。習主席は、指導部の主要メンバーを関係の深い人脈で固め、自らへの権力集中を一層進めたと報じられた。
日本メディアの多くは「3期目中の台湾侵攻は不可避」的な論調が出始めた。万が一、台湾有事が起きれば、沖縄基地から米軍機が飛び立って行く。まさにその話題に注目が集まっている時に、日本の米軍基地関連施設の7割が集中する沖縄で冒頭の噂を聞いた。
そんな地元の危機意識の高さは本土の比ではない。事実、沖縄入りする直前に東京や郷里静岡で出会った知人との会話でも、台湾有事は話題になったが、沖縄と同じレベルの緊張感は微塵も感じられなかった。
世界のウルクンチュ・タバルンチュ歓迎・親善交流大会
そんな第7回世界のウチナーンチュ大会の第3日目の2日、那覇市字小禄にある小禄自治会館2階ホールで「世界のウルクンチュ・タバルンチュ歓迎・親善交流大会」が催され、総勢約250人余りが熱烈に歓迎・交流した。(財)字小禄財産管理運営会、字小禄自治会、山下町字小禄人会、字田原財産管理運営会、字田原自治会の共催だ。「字」は那覇市を構成する一地域を示す。
字小禄と字田原出身者とその子孫がブラジルから14人、ハワイから21人、ザンビアから2人が〝故郷〟を訪ねていた。司会は照屋吉章さん、英語通訳は本間淳さん、新垣ミユキさん。
幕開けは宮城千尋さんと宮城信祥さんによる「かぎやで風」。続いてハワイ子孫の皆さんによる自己紹介と挨拶の中で、移住100周年式典が23年3月5日にオアフ島のハワイ沖縄センターで開催されることが披露され、「皆さんぜひ来てください」との招待の言葉があった。
ザンビア在住の高良初子さん(88歳)と息子イッペイさんの紹介もあった。初子さんは77年に青少年教育のために赴任、81年から同地大使館勤務、ザンビア日本友好協会を設立した。それらの功績から昨年、旭日双光章を受勲した。初子さんは「皆さんにお会いして元気をもらって向こうで頑張ります」と元気に挨拶した。
余興では字小禄/字田原青年会による雄壮な「国頭サバクイ」も披露された。首里城で使う木材を切り出して運ぶ様子を舞踊にしたものだ。
またバンドSSカンパニーによるライブ演奏も賑やかに行われ、ディスコのように踊る人の姿が見られた。
「このような時代だからこそユイマール精神で」
当日、ブラジル小禄田原字人会の与儀政晃会長からのメッセージが、コロナ禍の影響で県人会としての団体派遣が中止されことが残念だとした上で、「このような時代だからこそ、より一層同胞島んちゅが心と心、手と手をしっかりと繋ぎ、ユイマール(相互補助)精神で力強く前進して行かなければと切に思います」と代読された。
ブラジル県人会のサンタマリア支部長の照屋マルコスさんは「歓迎が嬉しい。心から感謝します。ブラジル小禄田原字人会創立105周年式典を23年8月20日にサンパウロ市で開催予定。ぜひ参加を」と呼びかけた。
今回初訪沖したブラジル県人会の高良律正会長も、両親が小禄出身の2世だ。「両親も子ども時代に家族に連れられて移住した」と言う。
高良会長は歓迎会を催してくれたことに感謝し、「家族と祖先を大切にするという精神を教えてくれた両親に感謝。沖縄文化をブラジルに広める責任の重さを感じている。また来年はブラジル日系社会最大のイベント、県連日本祭りの実行委員長としても頑張りたい」と挨拶した。
家族に連れられて1歳で字小禄からブラジル移民した照屋恵子さん(71)は、「6回目の大会参加です。育ったのはブラジルだけど、いつも温かい歓迎を受け、ここが心の故郷だと感じる」としみじみ語った。照屋さんは2013年、ブラジル琉球民謡協会の大会で優勝して、母県に歌いにくるなど、伝統継承に尽力している。
5回も訪伯したという字小禄財産管理運営会の高良正幸理事長に話を聞くと、「今回はブラジル勢がいつもより少なくて残念。前回大会時には400人の歓迎会だったから、今回はその半分。でもたとえ海外から4、5人しか来なくても歓迎会はやる予定だった」と決然たる様子で答えた。「この地区は沖縄の中でも最も移民が多い。普通は市町村単位で歓迎会をするし、那覇市でも字が独自に歓迎会をやるのはここだけ」と胸を張る。
高良忠清顧問(前理事長)にも話を聞くと、「ブラジルには第2回移民船で小禄から行っている。大戦中、この辺には日本軍基地があった関係で、大きな爆弾がたくさん落とされた。家はほとんど壊され、残ったのはたった4軒だったと言われている。だから小禄と田原の人たちは戦後、戦前移住した親戚を頼ってたくさん海外移住した。海外との絆はとても大事なんだ」と力説した。
オバーの先見の明で生き残った上原幸啓さん
高良理事長と顧問の話を聞きながら、2012年8月にサンパウロ市で600人を集めて盛大に開催されたブラジル小禄田原字人会95周年式典の際に、小禄出身の子ども移民の上原幸啓さん(当時84歳)から聞いた衝撃的な話を思い出した。
上原さんは1936年、8歳の時にブラジルに移住した。1931年に満州事変勃発、33年に日本は国際連盟脱退、36年には二・二六事件と日本は戦争への道をひた走っていた時期だ。
兄弟が米国移民していたオバー(祖母)は、「アメリカはとても豊かな国だと聞いている。そんな国と戦争になったら沖縄は最後だ」とくり返し言って、上原さんの父にブラジル行きを薦めた。父は日本が米国と戦争を始めるなんてと思いつつも、オバーの言いつけに従い、仕方なく子供のみ渡伯させた。上原さんの兄たちは先に渡って農業を営み、生活の基盤を作っていた。
だが悲しいことに、オバーの情報と判断は正しかった。沖縄は日本で唯一の陸上戦の地となり、中でも小禄地区は前に軍港、後に海軍司令部、横に空港という立地のために猛烈な爆撃を受けた。
だから、ブラジル移住しなかった上原さんの父と妹は、防空壕の中に隠れていたにも関わらず爆撃で死んだという。
上原さんは「移民しなかったら、僕はきっと戦争で死んでいましたよ。戦後に小禄を訪ねた際、小学校の幼友達と会って話をしていたら、同級生80人のうち戦後生き残ったのは12人だけだった聞きました。残りはみな戦死しましたから」と悲しそうに証言した。
上原さんは、サンパウロ総合大学工学部の名物教授として多くの技術者を育て上げ、2008年、日系社会においてもブラジル日本移民100周年祭典協会の理事長という大任を果たした。
沖縄の戦火を逃れ、ブラジルで生き延びた子供達が当地で成長し、先人の苦労と決断に感謝し、故郷と協力し合いながら今も絆を深めている。もしも台湾有事が起きて、沖縄が再び戦場となり荒廃したら、この国境を超えた絆は再び活性化するに違いない。
滅多に出さない沖縄伝統芸能「旗頭」で歓迎
歓迎会の最後には、青年会の皆さんによる沖縄伝統芸能「旗頭」が野外運動場に隆々と上げられ、花火が打ち上げられた。旗頭とは、那覇大綱引きの時に出されるもの。那覇市が東西14地区に分かれて綱引きをする際、小禄が属する西で7本、東で7本の旗頭が立てられて応援する。そのうちの1本だ。
歓迎会の司会をした照屋吉章さんに聞くと、大綱引き以外で旗頭が出ることは「滅多にないです。今日は特別にやった」とのこと。それだけ歓迎に気持ちがこもっている訳だ。
小禄や田原からたくさんの移民が海を越えたから、その子孫が今のブラジル日系社会の重要部分を支えるようになった。台湾有事が騒がれる今、そのような絆は過去のものではない。
次回の第8回世界のウチナーンチュ大会は5年後、奇しくも習近平3期目の最後と重なる。その時に沖縄はどうなっているのだろうか・・・。上原幸啓さんのオバーが今生きていたら、何と言うだろう。
ブラジルでは「晴天の時こそ屋根を直せ」と良く言われる。平和な今こそ国境を越えて絆を確かめ合うことが大切なのだ。(深)