連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第79話

 その頃、弟巳知治は友人の山田君兄弟と三人で、今まで経験を積んで来た工場の基礎設計の会社を立ち上げた。多分、一九八六年だったと思う。会社名はKTYで、Kは黒木、Tはトーマス、Yは山田で社長は黒木巳知治である。
 不景気なブラジルでは中々仕事をとるのが大変であるが、今まで働いて来た大きな設計会社から、小さい仕事を分けてもらったり、大きな施工会社は直接取り合ってくれないので、下請けで我慢しながらのスタートであった。それでも何とか赤字を出さずに少しづつ軌道にのって来た。社員も二〇人から五〇人と増えていった。その頃、私の知人で開発青年隊出身の高橋よしあきと言う男が、近くのアルト・ダ・セーラに住んでいて、高圧線の鉄塔を建てたり、送電線を張ったりして大金をもうけた男で、サンパウロにエレトロプラネッタと言う会社を持っていた。私とは国士舘剣道部の父兄と言うつながりから色々話しているうちに、彼は日本に工場や会社ぐるみで出稼ぎ、つまり、日本に会社進出していると言うことがわかった。弟巳知治の話をしたら「ぜひ日本に進出しなさい。図面をブラジルで書いて日本に送る仕事です」とすすめてくれた。
 私は早速、巳知治に高橋さんを紹介した。しばらく経って、巳知治から電話で高橋さんと相談した結果、自分たちも日本に会社を開けてみることにした、との返事であった。その後の詳しい成り行きは私には分からないが、巳知治は早速日本に飛んで、信代姉などをわずらわして、会社を設立した。
 二世の社員を日本に送り込み、日本の会社から設計の仕事を受注して、二~三年は何とか頑張ったようだが、日本流の納期厳守システムにはのんびりのブラジル流がついて行けなかったようで、会社直接の仕事は止めて、今度は社員を他社に貸し出す業務に切り替えた。その仕事を九〇年代の終わり近くまで続け、日本の会社を清算したのであるが、日本進出は失敗ではなかった。最初の頃は、年に三回も四回も出張し、社員の貸し出しの仕事に変わっても、ほとんど毎年訪日していた。終わりの方では信代姉に、その経理を任せていたようだ。今では、ブラジル本社にも力を注ぎ、モジ・ミリンの支社を含めて社員三五〇~四〇〇人の立派な企業に成長した。一時は同業誌に優良企業として表彰されたこともある。これも黒木巳知治社長の(絶対に借金をしない)と言う経営方針の業であろう。
 一九八八年からの六年間の記録を箇条書きしてみたけれど、これを年毎の大きな出来事を、その下に説明を加えればよかったと後になって気がついたので、以下に抜粋して詳述することにする。

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