一九八八年
大体この頃になるとブラジルの経済も政治もすごいインフレで、コントロールを失っていた。私の花作りは一応順調に仕事を拡大中で、少しの不安はあったにせよ気分的にはある程度の余裕が生まれていた。
専門の左官のエストリンゲ(アルナルド・ロドリゲス)を雇って、一ヶ年働いてもらい、花作りの基礎工事などさせた。花の販売は私も、ジョーナスと一緒にサンパウロのセアザに行った。客の応対はほとんジョーナスがやってくれるようになり、私は大いに助かった。
自分のカミニョンを使っての花販売であったが、正直者のジョーナスは売り上げを盗むことなど、あまり心配する必要はなかった。
この年の九月に、ジョーナスが結婚して、一〇㌔余り離れたイビウーナに住み、そこからおんぼろの車で通うようになった。それでもほとんど欠勤することはなかった。私にとっては私に自由な時間を作ってくれる重要な男になっていた。そこで、私は彼に住む家を造ってプレゼントした。
この様に私共も時間に余裕が出来て来たので、泊りがけで魚釣りに行ったり、サン・ジョアキンのりんご園見学旅行や、森田老夫婦とバウル市の近くのキロンボ温泉に休養に行ったりした。その年の六月五日にパトロンの森田正之さんが肺炎のため、八十一才で亡くなった。
同じ六月の十二日、日本の国士舘大学に留学中であった末っ子の絵理子が四年ぶりに、それも熊本の政子ばあちゃんを連れて帰伯した。十三年前に実現しなかった政子ばあちゃんの訪伯が実現したのである。
八十才の政子ばあちゃんの滞伯中の七月四日にるり子の三女、カミーラ朝香・今西が誕生した。朝香は政子ばあちゃんの命名したおみやげである。
政子ばあちゃんの滞伯中は霜が降りる寒い日が続いて、皆でたき火をしたり、集まってシュラスコ会を開いてそれをビデオに収録した。サントスの海にも遊んだりして、楽しい一ヶ月余りであった。
七月十八日 サンパウロの中心リベルダーデ区のサンジョアキン通りにアパートを購入(二万ドル)して、日本より帰伯したばかりの絵理子と日本の通信関係の会社NECに勤務中の恵美がそこに転居した。
十一月二十二日 長年お世話になった、コチア組合を脱退させられた。これは花作りを始めて、ほとんど組合への出荷がなかったからである。