連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第82話

 プエルトモントからサンチアゴへの帰りの飛行機はアンデスに沿って北上する、いくつもの富士に似た山が見られた。サンチアゴはアンデスともう一つ高い山に囲まれた盆地の都市で、スモッグがひどい。でも、チリの観光はすばらしい。もう一度訪ねたいところである。
・一月の末から二月にかけて、絵理子はアメリカのマイアミ近くでホームステイ研修を体験した。
・二月二十六日 原田さんの長男の十五才のマルシオが鉄砲の暴発で死亡、山沢、伊藤君もその現場にいて、事後の処理を手伝った。
・八月三日 絵理子の彼氏である後藤慶君の母、千容子さんと兄の洋君が来伯、我が家に泊まって、リオ、イグアスを観光して帰っていった。
・八月二十一日から三十日まで、アルゼンチンの花卉視察旅行を行った。ジャバツール(モジ)、メルクシャープ社主催、花の会・オルテッキ社共催で、ブエノス・アイレス近郊の花作りを視察した。ブラジルと同じく不景気で、泥棒が多く、花作り農家の人達は日本に出稼ぎに行っていて、ハウスが破れて風にはためいている風景があちこち散見された。夜はアルゼンチンのタンゴを観賞した。そこから一千㌔南のバリロッチェに飛び、冬も終わりのスキー場でお尻で滑るパチナソン・ブンブンを体験した。小さな吹雪に二世達は喜んでいた。
・七月に次女の恵美が弟、巳知治の日本の会社を手伝いに訪日した。
・八月には悟が花を自分で始める前にもう一度日本で研修することになった。丁度、全国拓植連合会(全拓連=JATAK)がブラジルの農業青年を、一ヵ年日本で研修生として受け入れる制度を発足する時期でもあり、その第一号として応募参加したのだが、事前によく調査もせず訪日したために、厳しい現実にぶつかった。日伯の契約書調印が完結しておらず、仕方なく山梨で仕事をしたりしていた。全拓連を訪ねて、研修先を探してくれる様、花の会長の荒木さんの紹介状を持参して、お願いしたのが功を奏して、愛知県渥美町の小久保農場で研修を受け入れてもらえる事になり、菊作りの農場で約半年お世話になった。全拓連の研修生の仲間には入れなかったけれど、悟の研修ぶりが関係者に好印象を与えたようで、その後に数十名の農業青年が日本各地で全拓連(JATAK)研修生としての訪日が実現することになった。

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