《特別寄稿》誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=(19)=日本におけるブラジル音楽は横浜から始まった

文明開化の地、祖父母の代からの生粋のハマッ子

 江戸時代の武蔵国久良岐(くらき)郡横浜村は小さな漁村だったが、1859年(安政6年)に開港してから文明開化となり急速に発展したので、ジャズ喫茶店、映画館、ダンスホール、ビール工場など「日本最初」と名が付く西洋伝来の事始めが数多い。
 しかし、唯一つ誰も気がついていない事が一つある。それはブラジル音楽なのである。私自身が祖父母から三代目になる生粋のハマッ子だから手前味噌みたいだが、是非とも書き残しておきたいと思い筆を執った次第である。
 ブラジル音楽が日本に紹介されたのは、1938年に日本ビクターから発売されたカルメン・ミランダのレコードだが、戦争によって国際交流が途絶えたため、終戦直後に東京の進駐軍放送局WVTRラジオ番組「中南米音楽の時間」から再デビューしたと言ってよいだろう。
 しかし放送されたブラジル音楽は米国のキューバ系楽団によるインスト・レコードが多く、その上アメリカ女性アナウンサーがスペイン語系だったので、日本人聴取者にはブラジル音楽というアイデンティティーを喚起しなかった。
 1950年代になってからNHKラジオ番組「中南米音楽の時間」の解説者がブラジル音楽を紹介したので、聴取者にこのジャンルのファンが生まれたが、レコード業界やミュージシャンの間ではブラジル音楽というジャンルはまだ確立しなかった。
 有名なラテン音楽ピアニスト故松岡直也氏(彼もハマッ子)は、まだ坊主頭の学生時代からプロとして活躍していて、私は一時ニューグランド・ホテルや米軍クラブで一緒に仕事をしたが、彼でさえブラジル曲はサンバ・ブラジル(アクァレーラ・ド・ブラジル)しか無かったし、ベテラン・ドラマーも米国人と同じドラミングであった。
 ブラジル音楽が日本で広まったのは1960年代に入って米国経由のボサノーヴァからで、その頃から歌いたい、弾きたいという希望者が出てきたのである。

50年代、県知事が率先してブラジル音楽のレコード・コンサート

大島守氏と筆者。JALブラジル直行便運航開始祝賀会にて

 当時、横浜にジャズギターを弾いていた大島守という怪人物がいた。
 何故怪人物かというと、ボサノーヴァ・ギタリスト草分けの一人、佐藤正美さんがブラジル音楽を目指した時に大島氏から「ブラジル音楽やるならパドレ・マウリシオから入れよ」なんて言われたからである。
 今から60年ほど前の日本で、ブラジル文化関係者でもない人からパドレ・マウリシオの名が出るなんて考えられないが、本人の口から「俺は防空壕の中で竹針の手巻き蓄音機でカルメン・ミランダを聴いていたんだ」なんて聞くと誰でも圧倒されてしまうだろう。
 日本におけるブラジル音楽の一番古いイベントは終戦後に流行ったレコード・コンサートで、記憶が確かではないが私が大学生だったから1950年頃、横浜市白楽の内山岩太郎神奈川県知事官邸で行われた。
 どうして県知事が、と言うと内山知事は戦前に在サンパウロ総領事及び在リオ大使館参事官として在勤したブラジル通だったので、日本人には入手困難なブラジル新盤レコードを紹介しようと思い立ったのである。招待客は各国外交官、ジャーナリスト、音楽関係知人などで、カクテルパーティでのレコード・コンサートだった。
 一介の学生だった私に招待状などくるわけがないが、私の叔父、歯科医の千野純次はヨコハマ・ヨットクラブ会長で知事とは親しい仲だったので「お前、行きたいか」と声をかけてくれたのである。県知事の発想によるブラジル音楽レコード・コンサートなんて、いかにも横浜らしい催しだった。
 横浜の野毛にある日本初のジャズ喫茶「ちぐさ」は、渡辺貞夫や秋吉敏子両氏が常連だった有名店だが、東京オリンピックの1964年には早くもブラジル録音のジャズサンバ名盤が聴けた。ジョアン・ジルベルトやトム・ジョビンのボサノーヴァ・レコードは日本でも耳にするようになっていたが、サンバジャズのインスト・レコードなんてまだお目にかかれない頃である。
 入手ルートは吉田マスターの友人だったジャズマン塩田みのる氏が1958年に寺部頼幸ココナツ・アイランダースのベースとして渡伯したので、マスターの好きそうなレコードを選んで送ったのである。ブラジルと言えばコーヒーとアマゾンという先入観しか持っていなかった吉田さんは、聴いてみて「意外とモダンで驚いたよ。きっとビバップが好かれているんだろうね」と誠に当を得た感想を漏らしたのである。
 そのわけを説明すると、ブラジルのペルナンブコ州で民俗舞踊として知られている「フレーボ」はブラスバンドが伴奏するマーチ風な曲なので管楽器奏者が非常に多く、仕事を求めて大都会リオ、サンパウロへ移住したミュージシャンの殆どがビバップに凝っていたのである。
 だからサンバ・リズムのレコードを聴いて演奏者のジャズ的傾向をピタリと言い当てた吉田さんの鋭い耳にはシャッポを脱ぐ他ない。それはとにかく「ちぐさ」はサンバジャズを日本で最初に聴かせたコーヒー店である。

日本一のサンバジャズ・ピアノトリオも横浜

 ブラジルで管楽器のインスト・モダンサンバ発展の口火となったのはピアノ、ベース、ドラムから成るサンバジャズ・トリオだが、エレキとロック時代になってから仕事場を失い今ではサンパウロのような南米一の大都会でも特別なコンサート以外で聴ける場所が殆ど無い。

 ところが現在の日本で本場ブラジルの一流レベルと引けを取らないトリオが健在なのだ。それが横浜の「ぶらじる商会」である。ピアノ澤井夏海、ベース古舘恒也、ドラムそえぢ諸氏が、日本人の特性である凝り性と団結力によって10年以上も共演しているのだから息が合うフィーリングは最高である。この「ぶらじる商会」がサンバ・リズムに乗せて演奏する「横浜市歌」のアレンジはさすがの聴きどころである。

日伯の警官音楽隊の楽曲交流を演出

市警音楽隊長から楽譜を託される筆者

 1963年から私が住んでいたサンパウロのアパートの近くに市警音楽隊の練習所があり、ブラスバンド・ファンの私は時々顔を出していたのでコンダクターのヴァルディール・ロドリゲス隊長と親しくなっていた。
 私事になるが私は旧制県立二中の音楽部員だったので、教練の時間はラッパ卒だった。サンパウロ市警音楽隊本部には番兵もおらずTシャツにジーパンでふらっと入っていけたのだから、今思うとのんびりした時代だった。
 或る日、日本曲は有るかと聞いたら隊長は「国歌しかない」と答えたので、私は東京オリンピックに訪日するので故郷横浜の警察バンドのレパートリーを依頼してみると話を持ちかけたら、隊長は目を輝かせて「それなら君にブラジル曲の譜面を託すから楽曲交換交流をしよう」と話が決まった。

市警へ神奈川県警音楽隊の譜面を届ける筆者

 幸いにも神奈川新聞の脇坂文化部長が翠嵐高校の同級だったから交渉を早速仲介してくれて、私が訪日の際に神奈川県庁で知事出席のもと交換式を行ったのである。船旅移住の人なら船出の時に桟橋で別れの演奏をしてくれた音楽隊を憶えているだろう。日伯警察音楽隊のレパートリー交換も横浜が最初である。
 1967年にブラジル音楽探求の目的で横浜から大島守氏が訪伯した。日本ではボサノーヴァの波が北米経由で押し寄せていたが、彼の目的はショーロや伝統的サンバの演奏家と知り合うこととレコードの買いあさりだった。
 とにかく大島さんは不思議な人で、どこへでもひとりで出かけてミュージシャンたちとブロークンなポ語で長々とおしゃべりをする才能は日本人離れしていた。またライブ・バーでマッチ箱を叩きながらサンバを楽しんでいるリズムのスイング感はブラジル人プロと全く変わりなく、同席していた黒人サンビスタがほめたほどであった。
 そして帰国後ブラジル音楽志望の若者たちに自宅でリズム教室を始めたのである。ブラジル音楽は打楽器の種類が多いことで知られているが、大島氏はどれを演奏してもモノホン(本物)になっていた。彼の教え方は一番弟子だった横浜交響楽団のトランペット木下良一氏によると、先ず自分がコーヒー豆を挽いて出してくれてからレコードを聴かせながら煙草を吸い続け、自分も楽しんでいる様子が忘れられないと語った。

歌姫エリゼッチを大島邸に招きローダ・デ・サンバ

ブラジル音楽の殿堂 大島邸

 現在日本のブラジル音楽演奏家のベテランたちで大島邸参りをした人は少なくないだろう。日本におけるブラジル音楽教室の走りも横浜港が見える丘、西戸部の大島邸である。
 1977年にはブラジルから有名芸能人が続々と訪日するようになっていたがスケジュールの関係でファンたちとざっくばらんに話す余裕がほとんどなかった。ブラジルでは庶民が「ローダ・デ・サンバ」という飲んで歌ったり踊ったりする集まりはポピュラーな風習であるが、大島氏はブラジルの美空ひばり的な歌姫エリゼッチ・カルドーゾ一行を家庭に招きローダ・デ・サンバをファンたちと共に楽しんだ。
 ビーフェ・デ・モラエスという名の分厚いステーキを作り、地酒カイピリーニャでもてなしたのが四谷の日本初のブラジル・レストラン「サシ・ペレレ」の小野敏郎オーナーで、まだ中学生だった小野リサちゃんもギターを持って参加した。彼女はブラジル生まれだから魚が水に帰ったようにポ語でしゃべっていたし、リズムの王様と呼ばれたウイルソン・ダス・ネーヴェスも加わっていたのだからパーティはものすごく盛り上がった。これも日本で本格的なブラジルの風習ローダ・デ・サンバ開催の最初である。
 その頃大島氏は「将来横浜開港記念日パレードにブラジル音楽バンドの花自動車(山車トラック)を出そうと計画してるんだ」と言っていたが、私が法事で帰国した1989年は丁度開港記念日にあたり、大島さんが山下町へ見に来いよとさそったので彼の夢の実現を目の当たりに見物できたのである。

大島師匠の寺子屋

 米軍軍楽隊を筆頭に進んできたパレードの後方からサンバ・リズムが響いてきて、在日ブラジル人ミュージシャンを集めて車上で指揮している大島さんのリーダー姿は生き生きとしていた。彼が主張したとおりブラジル移民送り出し港の記念祭に、ブラジル音楽バンドがパレードで演奏するのは非常に意義ある演出だったと思う。日本各都市で催されるカーニバルは別として大都市の公式行事にブラジル人バンド花自動車の参加は横浜が最初である。
 このように才人大島師匠が日伯音楽交流に貢献した功績は非常に大きく、私も陰ながら助手役として色々お手伝いしたおかげで2020年度叙勲に旭日双光章を授かったのは関係者皆様の温かい御支援の賜物だと感謝の念が絶えない。

「ブラジルは君のように美しい女性が大勢いるの?」

現在の元ヨコハマ・ヨットクラブ。元会員の鎮目守治画伯の作品(元会員 橋本〈千野〉由紀子氏提供)

 よく考えてみると私は渡航の4カ月前までブラジル移住なんて決めていなかった。そのきっかけは横浜山下町のヨコハマ・ヨットクラブなのである。
 1956年6月、私がメンバーだった学生ジャズバンドが進駐軍の家族パーティでの演奏を引き受けた会場が、日本最古のヨコハマ・ヨットハーバーに面した日本最初のヨットクラブの2階ホールだったのである。
 たまたま出席していた駐日ブラジル大使令嬢ヴェラ・メンデス・ゴンサルべスと知り合い、彼女の可愛らしさについ酒の勢いも手伝って「ブラジルは君のように美しい女性が大勢いるの?」(もちろん英会話だった)と質問したら、彼女が「あたしはブラジルではブスよ」と笑った一言が私の人生を決めてしまったのだ。
 その4カ月後に私はオランダ船チチャレンガ号の三等船客となっていたのである。従って横浜ヨットクラブを日本でのブラジル音楽普及の一因とすることに御厚情いただきたい。
 あれから66年、世は情報化社会となり日伯交流は緊密さを増しているが、大島氏と私が蒔いた小さな種が実を結んでいるのを見ると胸を打たれる昨今である。

横浜が日本の外国であった頃
私は生まれて食べて大きくなった
だから地球のどこに住んでいても
故郷に居るのと変わりはない
ヨコハマは私の心のオアシスだ

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