「サッカーの王様」と称され、ブラジルのみならず全世界のサッカーファンから愛されたペレが29日、癌による多臓器不全のため、サンパウロ市南部にあるアルベルト・アインシュタイン病院で亡くなった。82歳だった。29、30日付現地紙、サイトが報じている。
ペレは11月29日に気管支の炎症で同病院に入院。その時点で癌が肺や肝臓にも転移していることが確認され、予断を許さない状況だった。それからちょうど1カ月後の死だった。
ペレの死後、国内外のサッカー界や政界から追悼のコメントが届いている。ネイマールは「ペレ以前、背番号10はただの数字にすぎなかった」、クリスチアーノ・ロナウドは「何百万人にとってのサッカーの手本になった」とその栄誉を称えた。ボルソナロ大統領は「サッカーを芸術と喜びに変えた」、オバマ元米国大統領は「彼は人々をまとめるスポーツの力を知っていた」と語っている。
ペレ(本名エジソン・アランテス・ド・ナシメント)は、1940年にミナス・ジェライス州トレス・コラソンエスで生まれた。これまで10月23日と信じられていた誕生日は、役所に届けられた出生証明書で10月21日だったことがこのほど判明した。
4歳のときに一家と共にサンパウロ州バウルーに移住。ドンジーニョという名でサッカー選手をしていた父親の影響で早くからサッカーに興味を抱いたエジソン少年は、父親が所属していたバウルーのクラブのゴールキーパーのファンになり、彼の名「ビレ」を連呼するようになったことで「ビレ」というあだ名がつき、それが「ペレ」に発展した。
ペレは16歳だった1956年にサントスでサッカー選手としてプロ・デビュー。翌57年にサントスのサンパウロ州選手権の優勝に貢献した頃に代表(セレソン)入り。その勢いで1958年、スウェーデンで開催されたW杯で彼は背番号10の攻撃の要の選手として抜擢されると、この大会で6得点を記録。ブラジルのW杯初制覇に貢献し、一躍世界的に注目された。
それからのサッカー界はペレの時代となった。所属のサントスは1962、63年に南米一と世界一を経験。W杯では1958年、62年、70年の3回世界一となり、70年の際には最優秀選手にも選ばれた。W杯で3度の優勝を経験した選手はペレただ一人で、4回の出場であげた12得点は通算6位の成績だ。
ペレは1971年に代表を引退。74年にサントスから引退すると、75年に北米サッカー・リーグのニューヨーク・コスモスに加入。77年に引退するまでプレー。サッカー不毛と呼ばれた同地でのサッカー・ブームにも短期間ながら貢献した。
通算成績は1366試合で1283得点。セレソンでは92試合で77得点。得点数はW杯カタール大会でネイマールが追いついたが、通算1位タイだ。
その後、ペレは指導者の道は歩まず、ユネスコやユニセフなどの、サッカーを通じた親善大使的な役割を多く務め、国内ではカルドーゾ政権の1995年に、この時に創設されたスポーツ相を4年間務めている。
ペレは2010年代から体調を崩し、2012年には大腿骨、14年には腎臓結石の手術で入院。結腸癌は2021年に発覚した。
ペレの通夜、葬儀、埋葬は本人の遺志で、1月1日のルーラ次期大統領の就任式以降となっている。ルーラ政権はペレの地元サントスの港湾のひとつをペレと名付ける意向だ。
ペレの遺体はまだ、アルベルト・アインシュタイン病院に置かれており、1日夜から2日未明にかけてサントスに運ばれる。通夜は2日午前10時から3日午前10時まで、ペレの古巣のサントスFC(ヴィラ・ベルミロ)で行われる。遺体を載せた車はサントス市内を周り、ペレの母親が住むカナル6を経てメモリアル・ネクロポレ・エクメニカに運ばれる。埋葬は身内のみで行われる予定だ。