12月29日に82歳で逝去した「サッカーの王様」ペレの生涯の軌跡を5回連載で追う。第1回目はペレがブラジルを代表するサッカー選手になる前の少年時代に迫る。
ペレは1940年10月、ミナス・ジェライス州のトレス・コラソンエスで一家の長男(後に弟も誕生)として生まれた。本名はエジソン・アランテス・ド・ナシメント。誕生日は10月23日とされていたが、出生届によると本当の誕生日は10月21日で、名前はこれまでの「Edson」ではなく、「Edison」であることが明らかになった。
エジソン少年の父は「ドンジーニョ」という名前のサッカー選手だった。ヘディングが得意なセンター・フォワードで、当時のブラジル代表(セレソン)のエースと比べられ、「南ミナス・ジェライスのレオニダス」との異名も取っていた。ドンジーニョはアトレチコ・ミネイロと契約するなど将来を嘱望されていたが、エジソン少年が生まれる約半年前の練習試合で膝を負傷。これが致命傷となり、選手としては出世できなかった。
1944年、エジソンの一家はサンパウロ州の内陸部のバウルーに転居する。父は同市のクラブでサッカーを続け、エジソン少年はサッカーに興味を抱く。彼は当初、守備の選手に興味を抱き、最初に好きになったのは父のクラブのゴールキーパーだった「ビレ」。その名前を連呼したことでエジソンは「ビレ」と呼ばれはじめ、やがて「ペレ」となった。
1950年、ブラジルが自国開催のW杯でウルグアイに敗れた、「マラカナンの悲劇」と呼ばれる試合をラジオで聞いていた父が泣いている姿を見て、10歳だったペレは父のためにブラジルをW杯で優勝させたいと願うようになる。そのことは彼が後に父にあてた手紙でも明らかになっている。
父が所属するクラブで頭角を現したペレは15歳だった1956年8月にサントスに加入。9月7日のコリンチャンス戦でプロ初得点を決めたのを皮切りに、サントスのサンパウロ州選手権制覇に貢献。57年には早くもセレソンに召集され、7月7日のアルゼンチン戦で代表初得点を記録する。
翌1958年、サンパウロ州選手権、ブラジル杯、リオ・サンパウロ杯などで全58得点をあげる驚異的な成長を見せたペレは、その勢いの中で6月、スウェーデンでのW杯を迎えた。(つづく)