昨年12月29日に亡くなった「サッカーの王様」ペレの軌跡を追う連載。第2回は、彼が全世界にセンセーションを巻き起こした1958年のW杯と当時のブラジルを回想する。
58年のスウェーデン大会でのペレはまだ17歳7カ月だった。現在のフランス代表のエース、キリアン・エムバペが2018年のW杯で一世を風靡した時の年齢が19歳6カ月だったことを考えても驚異的な若さだ。
ペレはこの大会に背番号10、トップ下のレギュラーで参加し、グループ・リーグ3戦目のソ連戦から出場。その時は0ゴール、0アシストで終わったが、準々決勝のウェールズ戦でその本領を発揮し始めた。
後半21分、ペナルティエリア内でゴールを背にしたまま、胸で受けたこぼれ玉を、クルッと反転していきなりシュート。これがゴール左隅に決まり、W杯初得点となった。
続く準決勝フランス戦では、華々しくハットトリック(3得点)を決める快挙を達成。特に、3点目となった試合終了間際のゴールは、ゴール前でのディフェンダーとの1対1の対決を、ボールを浮かせてかわした高度なものだった。
決勝のスウェーデン戦でもペレは2点を決めた。特に、チームにとって3点目、自身の1点目となった後半10分のゴールは、相手ディフェンダー2人の頭越しにボールを浮かして決めたもので、W杯史上でも伝説として語られ続けている。
この活躍でブラジル代表はW杯で初優勝を飾った。ペレはテレビが世界的に普及し始めた時代の最初のサッカー界のスーパースターの1人となった。当時のサッカー界では1956年に欧州チャンピオンズ・リーグが始まるなど、欧州に本格的なサッカーブームが訪れていた。
また、1958年という年は伯国としても大きな意味があった。ジョアン・ジルベルトが最初のボサノバ楽曲と定義される「シェーガ・デ・サウダージ」を発表したのがその年だし、ジュセリーノ・クビチェック大統領(当時)が1960年のブラジリアへの遷都作業を進め、伝説の建築家オスカー・ニーマイヤーによるプラナルト宮などの未来的な建築が発表され始めていた頃でもある。ブラジル映画の文化運動「シネマ・ノーヴォ」が始まったのもその年とされている。
ペレの登場はそれらに並ぶ「新しいブラジル」の象徴でもあった。(つづく)