連載第3回目はペレが1958年のW杯優勝以降、20代だった1960年代にかけてで、グラウンド内外で次々に生まれた様々な「伝説」を紹介する。
W杯でブラジル代表(セレソン)が初優勝した1958年以降もペレの伝説は続いた。1959年には、当時は大会としての扱いが小さかったコパ・アメリカに1度限りの出場。セレソンは優勝を逃したが、ペレは8得点を挙げ、得点王に輝いた。
同年8月2日にはサンパウロ市ルア・ジャヴァリ・スタジアムのサントス対ジュヴェントス戦で、ディフェンダー4人を前にしてボールを上に高く上げ、ヘディングシュートを決めた。これは撮影記録がないが、今日まで「ペレの生涯ベスト・ゴール」と呼ばれている。
サッカー人生のほとんどをサントスで過ごしたペレだが、1961年、ジャニオ・クアドロス大統領(当時)は「ペレは国の宝」とし、国外移籍させない大統領令を出した。
1962年のW杯初戦のメキシコ戦では、長距離をドリブルで一人で抜き去り、豪快なシュートを決めた。だが、この試合で事前に痛めていたひざ痛が悪化。この試合以降、ペレは全試合欠場となったが、セレソンは2連覇を果たした。
同年10月、サントスは初の世界一となった。世界制覇を決めたベンフィカ(ポルトガル)との第2試合で、ペレは守備陣を快速ドリブルで次々と抜き去り、シュート。これをはじいたキーパーのこぼれ玉を決めたが、これもしばしば、ペレのベスト・ゴールに挙げられる。サントスは63年も世界一となり、2連覇を達成した。
1964年はサントス対ボタフォゴ・サンパウロ戦で8得点、65年はサントス対アペア戦で5得点を記録。65年6月2日に行われたセレソンでのベルギーとの親善試合で決めたオーバーヘッドキックも、写真報道で有名になっている。
1966年7月のイギリスでのW杯はペレもセレソンも精彩を欠き、グループ予選で敗退したが、当時一世を風靡し、日本武道館での公演を終えた直後のビートルズが、この大会でペレに会おうと接触を試みていたことが、ペレによる手記で明らかになっている。
1969年、サントスはナイジェリアで親善試合を行ったが、試合の時は同国での内戦が一時停戦。これにより、「ペレが戦争を止めさせた」との伝説も生まれた。(つづく)