連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第106話

・六月三日 コチア青年の森の一角に石碑を建てる件で、イタぺセリカの石屋さん、須藤岩男さんに話しに行く。
・六月九日 県人会第四回目の資金カンパはモジ、スザノ地方に行った。
・六月二十日 モジのマレット・ゴルフのカンポ(コース)開き、マレット・ゴルフのカンポはこれで十地方に造成された。
・六月二十三日 県人会第五回目の資金カンパ、これが最後でサンパウロ市内であった。集金目標四万レアイスに対して全伯で五万レアイス集まった。
・七月三十日 コチア青年の森造成の件で国士舘担当の小川理事との話し合い。
・八月三日 安藤善兵衛(九十八才)宮崎県人会創立会員サントス更生ホームで死亡。サンベルナルドの墓地に埋葬した。
・八月十五日 慧と美佐子の結婚四十五周年(慧六十九才、美佐子六十六才)
・八月十九日 宮崎県人会創立五十五周年記念祭の始まり 徳永さんが一足早くブラジルにやって来て、その準備を手伝ってくれた。
 母県宮崎からの慶祝団は江藤隆出納長、米良県議会議長以上総勢八〇名。私の末妹七海とその夫、黒木昭征さんも私と巳知治の旅費協力で来伯が実現した。この度の式典は私が実行委員長という事で、一番責任の重い役目であった。私はそれぞれの役割の責任者を決めて、手落ちのない様に慎重なチェックを重ねて事を運んだつもり、少しの狂いは出たが全体としては余り大きな失敗もなく、和やかに進行して、皆の評判も良く、成功と言えるだろう。日本や近隣の南米諸国からの慶祝を合わせて総勢五五〇名の参加者で北海道協会サロンは一杯になった。本番の八月二十二日の前の夜の県人会主催の前夜祭も、アベニーダ・クビチェックのブッフェで行われた。日本からのお客さんが大変喜んでくれた。私は実行委員長で全体の采配を取りしきった。大会委員長は吉加江ネルソン県人会長であった。大会が済んで日本のお客さんを送り出すまでは私も忙しくて、七海や昭征さんに相手する時間がなかったが、そのあと一週間位ゆっくり我がシチオで語らいの時が持てた。妹夫妻はイグアスーとリオの見物も出来て、またバウルーの天理教伝導庁には巳知治が車で案内、ブラジルの良さを見て感じて帰って行った。
・九月七日 国士舘マレットゴルフ愛好会創立五周年式典。
・九月十五日 小泉純一郎日本国首相サンパウロ訪問、文協大サロンでの歓迎会で講演、涙をつまらせる場面があり、皆を感激させた。
・九月十六日 コチア青年の森の植樹のマルカソン(目印)ぎっくり腰痛で大変。

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