連載第4回目は、ペレのキャリアの頂点となった1970年のW杯から、1977年の現役引退までを扱う。
1970年、29歳で迎えたW杯メキシコ大会はペレのキャリアの頂点となった。1958、62年はガリンシャ、ジジ、ザガロ、ジャウマ・サントスなどが参加するブラジル代表(セレソン)でも若手だったペレも、この大会ではトスタン、ジャイルジーニョ、リベリーノ、カルロス・アルベルトなど、当時の若手を牽引する選手となっていた。
この大会でのペレは序盤から快調だった。グループリーグのルーマニア戦では、フリーキックから相手の壁を突き破る豪快なロングシュート、チェコ・スロバキア戦では、胸トラップを足元に落としたところからの鮮やかなミドルシュートを決めた。イングランド戦では名キーパー、ゴードン・バンクスにW杯史上に残る難易度の高いセーブを決められたものの、その際のペレのゴール左下隅へのヘディングシュートにも注目が集まった。
決勝のイタリア戦では前半18分、リベリーノからの高く上がったクロスを、ペレが驚異的な高さでのヘディングシュートで先制。後半41分には、ペレの意表をついたパスを、走り込んできたカルロス・アルベルトが豪快に決めてだめ押しゴール。この、サッカー史で語られる2得点などで、4―1で圧勝。この大会、セレソンは6試合で19得点と大爆発。攻撃の起点となったペレは最優秀選手に選ばれた。
ペレは1971年7月限りでセレソンを実質引退。1972年にはサントスで訪日興行試合。73年12月にはマラカナン・スタジアムでガリンシャの引退試合も兼ねた対世界選抜チーム戦で1回限りのセレソン復帰など、親善的な試合が増えていった。
1974年10月2日、ペレは本拠地ヴィラ・ベルミロでのサントス対ポンテ・プレッタ戦で、足掛け19年のブラジルでの現役生活に終止符を打った。
翌1975年は米国に渡り、当時発足して7年の北米サッカー・リーグにニューヨーク・コスモスの一員として参加。サッカー人気不毛と呼ばれた米国でのサッカーの底上げに尽力し、一時的ながら同国でのサッカー・ブームに貢献した。
また、76、77年にはコスモスの一員として2回訪日。77年9月14日の国立競技場での日本代表戦はJリーグ発足の16年前ながら、6万5千人の大入りを記録した。同年10月1日、ペレはニューヨーク・ジャイアンツ・スタジアムでの試合で引退。対戦相手はサントスだった。(つづく)