《記者コラム》治安警察の禁書をポ語訳出版=ようやく終わる岸本家の長すぎた戦後

『Isolados em um Território em Guerra na América do Sul』(Ateliê Editorial)と『南米の戦野に孤立して』(1947年刊)

社会治安警察が禁書にした唯一の日本語書籍

 第2次大戦中に起きた日本移民迫害を獄中記も含めてまとめた禁断の書、岸本昂一著『南米の戦野に孤立して』(1947年刊)のポルトガル語版『Isolados em um Território em Guerra na América do Sul』(Ateliê Editorial)が、その子孫によって20年がかりで昨年末に刊行された。なぜ「禁断の書」かといえば、出版翌年の48年に社会治安警察(Deops)によって検閲没収された唯一の日本語書籍だからだ。
 孫でドキュメンタリー作家の岸本アレシャンドレの働きかけにより、昨年12月13日晩、人種平等ジャーナリスト委員会(Cojira SP)が主催してサンパウロ市のサンパウロ州ジャーナリスト組合内講堂で刊行記念イベントを行った。
 原書『南米の戦野に孤立して』は、1943年7月に起きた日本移民6500人のサントス地方からの24時間以内の強制立ち退き、大戦中に適性国移民として日系社会リーダーが捕らえられ、アメリカや英国の領事が立ち会いのもと警察に尋問されている様子など、大戦中の緊迫した様子を日本語で綴ったノンフィクションだ。
 原書の『南米の戦野に孤立して』は2002年10月に日本で再版された。それを今読んでも、「どうして発禁処分にされたのかよく分からない」という感想を持つ人も多いだろう。だが1947年は、独裁政権が軍事クーデターによって終わったばかり。戦時中に日本移民迫害に関わったDeopsの活動が活発だった時期で軍が強く、ブラジル政府批判と読める記述には今とは比べ物にならないぐらいデリケートな時代だった。
 喩えてみれば「天安門事件の4年後に、外国人が事件の真相を外国語で書いた本を中国国内で出版した」ぐらいのインパクトがあったのかも。
 しかも前年の46年は3月から7月までは「勝ち負け抗争」がブラジル社会全体を揺るがした時代だった。日系社会が日本戦勝を信じた勝ち組と敗戦を認めた負け組に二分し、お互いに殺傷事件を起こして21人もの被害者が出た。
 だからその直後の8月の新憲法制定議会では日本移民排斥の機運が高まり、新憲法に「年齢及び出身地を問わず、日本移民の入国を一切禁止する」との条項が入れられそうになった。賛成99対反対99票になり、議長が「個人的には賛成だが、我が国の新憲法に人種差別的な条文を入れるのは嘆かわしい」と反対を投じたためギリギリ禁止されなかった。
 憲法の条項に入れられそうになるほど、当時はブラジル国民全体からの日本移民への印象は悪かった。その大事件の余韻が冷めやらぬ翌47年、勝ち組の中からブラジル政府を批判する書籍を出版した「国家の危険人物」だとして、岸本は当時の官憲から狙い撃ちにされたようだ。
 そもそも、同書は外国語だからブラジル国民は誰も読まない。にも拘わらず発禁処分にされるというのは、異例中の異例の展開だった。

岸本家が20年がかりで翻訳出版

岸本昂一(『戦野』第三版より)

 『南米の戦野に孤立して』は47年9月の初版発行時に2千部がすぐに売り切れた。それだけで当時としてはベストセラーだ。第2版5千部が発行され、3カ月で3500部ほど売れたところで捜査が入った。外国語書籍がこの部数売れるのは、現在でも立派なことだ。それだけ当時の日本移民にとって共感を呼ぶ内容が書かれていたことの証明でもある。
 岸本は投獄されて取り調べを受け1カ月ほどで自宅に戻れた。だが「国家の危険人物」として帰化権のはく奪の上で国外追放するという刑事裁判にかけられ、10年がかりで勝訴するという苦難の体験をしなければならなかった。
 岸本はその裁判のことをタブーとして、家族にも詳細を語らなかった。そのため家族やその子孫は「何を書いたために発禁処分にされたのか」「どうしてDeopsは検閲し、国外退去裁判にかけたのか」を具体的に知ることができず、長年不安に苛まれていた。
 岸本家は20年前、第1次ルーラ政権が始まって軍事政権時代の悪事の掘り起こしが始まったのを見て、今なら翻訳出版できると考え、それから20年がかりで取り組んできた。
 ポ語版発行イベント当日は約50人が詰めかけ、岸本アレシャンドレ、解説文を書いた保久原ジョルジらの話に聞き入った。家族の名誉にかかわることだけに岸本家から多くの出席があり、感慨深そうに聞き入っていた。禁断の書の発行から4分の3世紀を経て、彼が何を書いたのかを子孫はようやく知ることができるようになった。
 刊行イベントで岸本アレシャンドレは、「終戦直後に勝ち負け抗争が起きてしまったために、大戦中に起きた日本移民迫害の事実も日系社会の中では完全にタブーとなり、すべては忘却の彼方に追いやられてしまった。戦争中に起きたことを語ることすらできなくなった」と今まで語られなかった理由を分析した。
 「日本移民は望まれない民として人種迫害されていた時期があった。このことを忘れないようにすることで、二度と同じことが起きないように警告する役割が、この本にはある」と意義づけた。
 エスタード紙論説委員、保久原ジョルジは「当時の日系社会の内実は複雑な状態だった。臣道連盟が悪者にされがちだが、そんな単純なものではなかった。警察は、勝ち負け抗争に関して事実とはかけ離れた解釈をし、メディアは警察がいうままに垂れ流した。岸本もその流れで一方的な容疑が被せられた。その事実を明らかにするのが、今回刊行された本の中身だ」とこの本の価値を評した。

「事実を事実として書く」すさまじい岸本の信念

 岸本は国外追放裁判で勝訴しそうになるたびに「日系二世の公証翻訳人Y」から有罪にするために悪意を持って意訳したとしか思えない横やりが入り、裁判が長引くことを繰り返した。
 色々調べてみると、Y自身は大戦中に最高学府のサンパウロ総合大学学生にも関わらずDeopsに逮捕勾留され、バルガス大統領に「自分たちはブラジル生まれのブラジル人だ」との直訴状まで書いていたことが分かった。戦前の二世には、日本軍国主義に染まった一世の親を反面教師として、ブラジル人性に目覚めたインテリ世代があり、彼らにとって「ブラジル官憲から親と同じように扱われる」ことは最大の屈辱だった。
 そのようにY本人も、ブラジル生まれの二世でありながら、日本移民の子孫であることを理由に虐められた被害者であり、その結果、日本人子孫というマイナス要素を打ち消すために「模範的なブラジル人」であることを示す必要があった。そのために、勝ち組の動向をDeopsに密告していたのではないかと思えるようになった。
 そんな二世らがブラジルの官憲や反日メディアに積極的に協力したから、勝ち負け抗争はややこしい展開になってしまった。日本語でもポ語でも、日本戦勝を狂信した勝ち組が一方的に負け組を殺したかのような解釈がいまだにまかり通っているが、そんなに単純な話ではない。お互いに血みどろの戦いを繰り広げ、負け組は官憲を巻き込むことで勝った。その結果、負け組史観が書き残されたのだと思う。
 その辺の事情は大変複雑なので『「勝ち組」異聞 ブラジル日系移民の戦後70年』(無明舎出版、2017年)に収めた連載『南米の戦野に孤立して 表現の自由と戦中のトラウマ』を読んでもらうしかない。
 それにしても、岸本の信念はすさまじい。例えば《歴史は好むと好まざるとに関わらず、事実を事実としてその時代の姿有りのままに書くのが本当である。その時代の姿が美しかろうが、醜かろうが、偽りなく書けばよいので、そこに人類が進んでいく方向があり、移民の辿ってきた大地があるのだ》(『蕃地の上に日輪めぐる』曠野社、58年、434ページ)というものだ。
 邦字紙記者を20年以上やってきた拙い経験からしても、「事実をありのままにかく」ということは一見簡単そうに見えてこれほど難しいことはないと痛感する。書きたくてもそのまま書けないことは思いの外あるものだ。だが、岸本は徹頭徹尾それで貫いたから、ブラジル政府が公にしたくないことまで敢えて書いて国外追放裁判にまでかけられた。

日本移民史から敢えて省かれた逸材たち

 岸本昂一は隔月刊発行の雑誌『曠野の星』を23年にわたって刊行しており、一番多い時で発行部数は5千部を誇った。加えて9冊に及ぶ著書を書き残した。日系社会のジャーナリストとしては破格の業績だ。
 それに岸本は戦前から暁星学園という全寮制宿舎兼日本語学校を経営していた。資金に恵まれない家庭向けに洗濯屋も同時に経営し、生徒をここで働かせて教育費を自分で稼がせるなど独自の工夫を凝らした。ここを拠点にして付近の学校に通ってUSPを卒業した生徒も多かった。
 戦前1939年に日本の帝国教育会から在外日本人教育功労者表彰を受けた31人の一人だった。他には安瀬盛次、上野米蔵、氏原彦馬ら蒼々たるメンバーの一人にこの時点で選ばれている。岸本はジャーナリストである以前に、教育者として長い経験と強い信念を持っていた。
 だが、そんな岸本の業績にも関わらず、日系社会の全盛期に刊行された『日本移民70年史』にも『日本移民80年史』にも扱われていない。あえて無視したようだ。
 戦後の日系社会の邦字紙や主要日系団体は負け組系の人脈が牛耳っていたから、勝ち組の一派と見られていた岸本の件は、長いこと邦字紙にも移民史にも扱われなかった。
 他にも、岸本と同じように大きな業績を上げながら日本移民史ではほぼ無視された人物がいる。日本力行会の永田稠会長や歌人の酒井繁一だ。
 戦前に506人、戦後も1210人が日本力行会を通してブラジルに移民が送り出された。加えてアリアンサ移住地建設などの大功績があるが、『80年史』ではわずか1カ所《当植民地の創立者の一人、力行会の永田稠会長は当移住地で「コーヒーよりも人をつくれ」と指導してきた》しか記述がない。
 永田稠の思想傾向には勝ち組的な臭いが強いとして、認識派が中心となった移民史編纂委員会から嫌われたように思える。
 酒井繁一もそうだ。宮崎県に生まれ、早稲田大学文学部に進学したが、折からの昭和不況で家業が傾き休学。1927年に山間部の諸塚村に代用教員として赴任した折り、村人から民謡「ひえつき節」の歌詞の補作を頼まれた。古めかしい歌詞を時代に合うように直す作業だ。復学のため再び上京したが、実家が倒産してしまい、32年に一家をあげて渡伯した。
 戦後初めての正月、リベルダーデで自分が補作した「ひえつき節」が偶然、日系書店の店先のラジオから流れてくるのを聞き、滂沱の涙を流したという。曲は日本中で大ヒットしたが、かなりの額のはずの著作権料を申請することもなく、ひっそりと亡くなった。
 酒井はスザノ福博短歌会を発足させ指導してきた。戦前移民で50年代に5冊も東京で著書を出版した希有なインテリだったが、土地売詐欺に巻き込まれるなど不運な一面もあった。何より、移民史編纂委員会から嫌われたのは、終戦直後に総合誌『新世紀』を刊行し、その中で勝ち組的と思える思想を説いたことだった。
 移民史からはこのような人材は、意図的に削除された。

勝ち負け抗争の複雑な事情をポ語で明確に

 ブラジルではすっかり忘却の彼方に忘れ去られていた岸本だが、日本側では『ブラジルコロニアの先駆者 岸本昂一』(松田時次著、新潟県海外移住家族会発行、1998年)、『南米の戦野に孤立して』(東風社、2002年)などが刊行されていた。
 その日伯の落差を奇異に感じたコラム子はニッケイ新聞時代に取材調査をして連載『南米の戦野に孤立して 表現の自由と戦中のトラウマ』を書き、そのポ語抄訳が今回の本にも掲載されている。
 今回のポ語翻訳本が出版されることで、勝ち負け抗争当時の複雑な日系社会の実情がより明確に理解されるようになるのではと期待される。翻訳は橋爪征四郎、保久原ジョルジの解説文も掲載されている。
 歴史というものは、良くも悪くも存在感が強かった人物ほど一時的に極端な評価をされ、それが長い時間をかけて徐々にバランスを整えていくのではないか。岸本が残したインパクトが余りに強かったため、タブーが長い間続いた。
 岸本家の〝長すぎた戦後〟が、4分の3世紀を経てようやく終わったのかもしれない。(敬称略、深)

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