連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第111話

 そして場所を式典の本会場である武道体育館に移して式典の始まり。私こと、黒木慧の開会宣言、山下治司会の名進行とは言っても長々と続く挨拶にはちょっと食傷ぎみであった。それでも何とかセレモニーは終わり、昼食は肥後さんのブッフェ「奄美」である。
 ところが参加者予想五〇〇人に対して二二〇名オーバーの七二〇名とあって、食べ物が足りずに大誤算で、訪日中で不在の肥後さんの代理の小西マーボーや弟の肥後やたろうさんは大慌てであった。でも何とかみなの腹はおさまったようで、余り大きな問題は出なかった。役員の私など腹ペコだった。そのあとの余興では美佐子さんの司会、成人も歌った。サンバチームの美女の踊りに皆目を細めたり、一緒に輪になって踊った。舞台の飾りつけは水口洋子さん。横の壁には新留さんの働きにより懐かしいコチア青年の写真展が行われていた。宮崎県からは徳永哲也さんが参列され、知事の祝詞も届けられ、私も面目をほどこした事である。石碑をバックに写真を撮った。また、五十年ぶりに同船者の黒木義満君と会い、またしばらくぶりに出会った仲間も何人もいた。このようにコチア青年の森とコチア青年の石碑のある国士舘で、コチア青年移住五十周年記念式典がかくも盛大に挙行されたこと、そして私たちの住むサンロッケに所在していること。この祭典で中心的役割を果たした私と美佐子、何か心に頑張ったねぇーと言う達成感と満足感を感じた数日であった。
・九月二十五日 バルゼン・グランデ・カラオケ大会(予選)、コチア青年大会の一週間後、続く忙しさ、でも美佐子はここでも頑張って大成功であった。
・十月四日 コチア青年五十周年祭の慰労会を国士館に於いて、肥後さんの料理で行った。五十周年大会を大成功に導いた仲間たち四十七名が集まった。
・十月九日 日本に行って二年目の後藤慶君が、永住権ビザの件で来伯を機会に黒木家の家族皆集まって春のみたま祭りを行った。
・十月十三日 コチア青年の森の植樹用に穴七〇〇穴を、一コーバ=一レアルで請負わせて掘り終わる。
・十月十六日 コチア青年中央役員会で五十周年祭の慰労会を高知県人会館で行った。
・十月二十二日 湯前和秋さん(六十四才)死亡(タボアオン・ダ・セーラのパルケ・パウリスタ墓地)。
・十月十九日 コローア・デ・クリストを国士館の道べりに植えた。私が苗を提供した。
・十一月二十三日 腰痛がひどく、そのあと右足も痛む。色々治療するが痛みが取れない。
・十一月二十七日 憩いの園へ県人会より慰問訪問した。

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