モテモテの活弁に憧れて次男、三男が家出
昭和のころだが、開拓者たちの娯楽の一つに若者たちにもてはやされた「ヴィオロン唄」があった。ヴィオロンとはポルトガル語でギターのことで、ギターをつま弾きながら歌う流行歌、今でいう演歌をヴィオロン唄と呼んだ。具体的には古賀政男の曲などだ。
しかしヴィオロン唄は主として青年男女の楽しみで、老若男女が一体となって楽しむものは何といっても映画(シネマ)だった。
シネマ屋がくると、入植地はお祭り騒ぎになる。まず、ポンポンと景気よく花火が上がり、
「今夜シネマがあるぞ」
ということを全村に知らせる。
ブラジルの花火は40メートルほど上昇してやけに大きな音で炸裂して白煙を残すだけのものだが、不便な場所では種々の連絡用にも使われた。
夕方、広場に白幕が張られ、一方に映写機が据えられる。暗くなるとゾロゾロ人が集まってくる。日本人だけでなく近所のブラジル人も来る。こんな場所では入場料の取りようがないから「花」でもらう。
映写機の横には後部車輪を上げたトラックがあり、映写開始になるとトラックのエンジンをかける。それでベルトでつないだダイナモを回して電源にするのだ。トラックとダイナモのドッドッドッという音が夜の植民地に響き始めると幕の横に立った弁士(無声映画の活動弁士)の血が騒いで来るのだった。
以前、私は元弁士の数人に会って往年のレパートリーを演ってもらったが、みんなちょっと喋ってから、
「どうもモーターの音がしないと調子が出ないなあ」とバツが悪そうに言った。
モーターの音を聞くと口が滑らかになるのはブラジル弁士の条件反射らしい。
「あなた! 別れたくない…」
と絶叫したあと、ドッドッドッと響くモーター音に観客はひしひしと胸を締め付けられたし、
「おめえたち、そんなに死に急ぐのか。フフフ…そら一人」「ウワー」
大立ち回りに響くドッドッドッはさながら「天国と地獄」の伴奏音楽みたいににぎやかに聞こえた(そうだ)。
「そんなもんです」
と元弁士の一人は言った。
弁士が熱演すると、感動した観客が次々に花を投げるから、映画説明はこんな風になる。
「…その庭に立ってウルンは桃ノ木をそっと撫でて、ホウラン、あの頃のことが思い出される。母上から小遣いをもらって桃を買った。ホウランは桃を抱いて私の後からついてきた。そしてそれを庭の隅に植えた。そしてそれが大木になった。優しいホウランを裏切って第一の妾を置いたとき、彼女は『やさしそうな女(ひと)ですね』と言って涙一つ見せなかった。
エー、花のお礼を申し上げます。第2植民地の山田新作様より2ミルレース、第3の吉田健太郎様より1ミルレースいただきました。毎度ごひいきいただきましてありがとうございます。
…さて…ホウラン、私がいま孤独に耐えることができるのはお前の愛情のせいなのだ」
ブラジル活弁界で最高の弁士と言われたのは野村北秋で、この人だけが日本の大阪で弁士をしたことがある経験者だった。フィルムの良し悪しよりも北秋の名前で観客を呼べた唯一の人だ。
私が会ったときはもう高齢で、直接の芸を聴くことはできなかったが、お弟子さんの声帯模写を聴くと、むしろ陰性のねばりつくような喋り方だ。それでいて肝心なところへ来ると声がオクターブも上がって、背筋がゾッとするほどすごい、とその弟子は言った。
北秋以外の弁士たちは入植者たちの次男、三男がモテモテの活弁に憧れて家を飛び出して弁士になった。泉四郎派とか、村田金波派とか自称していたが、要するにレコードで聞き覚えた芸である。しかし、好きでやっているうちに、それなりに進歩はしたようだ。みんな、いい若い者が家出した連中だから、弁士の声は「親不孝声」と呼ばれた。
勝手につなぎ合わせ、各自のセンスで〝編集〟も
活動屋についてまとまって記されたものは以前にはなく、断片的な記事しかないが、昭和14(1939)年のある植民地誌のうちに「日伯シネマ連盟」の広告がある(「伯」は伯剌西爾〈ブラジル〉の略)。I/C商会、日伯シネマ社、日本キネマ興行社、日東シネマ社、松竹興業合資会社の5社の名が連なり…映画は連盟加入社で…と宣伝文が付いている。してみると、連盟に加入しない小さなシネマ屋もかなりいたようだ。
連盟5社は数チームの班を持っていたから、昭和14年当時は2、30チームくらいのシネマ屋がサンパウロ州と周辺の邦人集団地を回っていたと推測できる。サンパウロ州はほぼ日本の本州くらいの面積があり、シネマを興行して採算が取れる邦人集団地は300カ所くらいだったろう。移動が大変だから毎日は上映できないとしても、1本のフイルムがあれば2年くらいは食っていける計算になる。
1本建てだと物足りないが、たいてい、客が「もう1回映してくれ」というので、映写時間は2本立てと同じになった。
「弁士、熱が入っておらんぞ」
とか、
「いいぞ、いいぞ」
とか、ヤジが盛んで大いに雰囲気が盛り上がったものだった。
ただ、虎の子のフイルムが1本しかないと切れるたびにつなぎ合わせてだんだんと短くなったり、辻褄が合わなくなったりする。それで弁士は手持ちの古いフイルムを勝手につなぎ合わせて長くした。その〝編集〟?は各自のセンスでやった。
山田五十鈴の「人妻椿」が上映されていて、恩人のために無実の罪を負った夫の身を彼女が案じていると、突如として目玉の松ちゃんが現れて剣戟(刀で切り合う戦い)を始める。
「エー途中でありますが、××植民地の皆様に目玉の松ちゃんがご挨拶に上がりました」なんて弁士はいい、
「さて本題に戻りまして、弱い女が親に背いて男のもとへ走った時、女はさらに弱いものであった」
と、いう具合に続けた。
ブラジルに古い人も、「最初に見た時と、後になって再び見た時では、だいぶ印象が違った」と言っていた。
シネマ屋の一チームは弁士と映写技師、それに助手の3人くらいだが、彼らがモテたことは今日では想像を絶していて、『コロニア五十年史』(パウリスタ新聞社、1958年刊)には、『駅に着くと植民地からトラックが迎えに来ていて一列に並んで「ご苦労様でした」と頭を下げるところもあって、大使より歓迎された、と言われるくらいだった。
植民地につくと今度は娘たちが大騒ぎ、娘ばかりでなく主婦たちの人気もあって、待遇は至れり尽くせりで風呂まで来て洗ってくれるという塩梅であった』と述べられている。
だから百姓に不向きな軟派の次男三男で弁士の弟子入りをするものが多かった。(因みに、硬派は邦字新聞の記者などになった)
旅館のオヤジから「親のもとに帰ってまじめに働けよ」
元弁士の本田さんの思い出を聞くと、兄貴が嫁をもらったので人手は足りるので家を飛び出して日伯シネマ社の門をたたいた。泉四郎がレコードに吹き込んだ「人妻椿」を暗記していて、それをやったら、斎藤社長が「発声はなっていないが、熱があるからいいだろう」と言って入社させてくれた。
ところが練習もなしに翌日からすぐ興行に出された。植民地についても娘ばっかりに目移りして、さっそく目を付けた娘に「まあ、この弁士さん下手ねえ、素人ねえ」と言われてがっかりしたそうだ。
倉知さんだの、はたのめいわくさんだの、みんな若くて、あっちのシネマ社を追い出されてこっちに拾われたり、気ままな青春を面白おかしく送った。金がなくて3カ月も旅館に居続けて、しまいに宿のオヤジが宿賃をタダにしてくれて旅費までくれて「親のもとに帰ってまじめに働けよ」と諭されたこともあった。
日系社会(コロニア)に映画が入ったのは昭和2(1927)年に、熊本県海外協会が移民慰問のために日蓮宗の坊さんを派遣したが、その時携行した「日蓮上人」のフイルムが最初だったといわれる。昭和5年に斎藤政一が映画をもって植民地を回れば商業ベースに乗ると判断して「日伯シネマ社」を興して、ブームの火付け役になった。
ここで注目しなければならないのは、昭和5(1930)年にはすでにシネマブームを支えるだけの基盤を持ったコロニアが成立していたということだ。主な町には日本人の宿屋があったし、各植民地の連絡も取れていた。各植民地には必ず日本人会があり、会を通せばたいていの世話は焼いてくれた。それがなかったら、3人くらいのチームで移動、宣伝などの一切をやっていたら広いブラジルでとても採算が合うはずがない。
映画より早くから人々に親しまれていたのは浪曲だったが、第一人者の南米吞舟をはじめ、かなりの数の職業的浪曲家が巡業していた。講談の高橋伯山などもいた。
彼らも日本人会の組織を頼って巡業していたのであった。もっとも道具が少なく移動が楽な浪曲家たちはさほど日本人会の世話にならなくても済んだが、人集めの筋としては、やはり日本人会の動員力に頼る点が大きかった。
旅回りの演劇一座「伯光団」の座長だった尾上菊昇もやはり、そうやって巡業したと言っていた。(終わり)