ポルト・アレグレ市からイボチ市までの約1時間半のバス移動中、有名なファロウピーリャ(Farroupilha)公園前を通った。ツアーガイドのジゼラ・ロドリゲスさんがファロウピーリャ革命(ファラッポス戦争)の説明を行った。
同革命は共和制の実施を求める南大河州の人々がブラジル帝国に対して独立運動を起こし、リオ・グランデンセ共和国を誕生させたというもの。同共和国は1835年9月から1845年3月まで存続した。帝国時代に起きた最も長い革命とされている。
革命の発端は、帝国首都リオ政府とそこから任官される州統領に、地元の大農場主や貴族が政治的、経済的に不満を持ち、反発したこととされている。
同革命の名前の由来は、反乱軍がボロボロの衣服を着ていたことから、「ボロボロの布」を意味するファラッポスの名前がついた。
革命の前段には、1825年から28年に当時のブラジル最南端シスプラチーナ地方(現在のウルグアイ)の所有権を巡って帝国とリオ・デ・ラ・プラタ連合州が争い、帝国側が敗北した経緯がある。
帝国側だった南大河州はシスプラチーナ領を失った。大農場主の間でも国境をめぐる激しい土地抗争が発生した。首都から派遣された軍総司令官は、シスプラチーナ戦争で壊滅的な敗北を喫した原因を地元勢のせいにしたため、帝国政府への信頼に大きな亀裂が生じた。
そうした中、同地域では国境を越えてフランス革命(1789年~1795年)の理念「平等、自由、友愛」が浸透を見せており、革命への機運は高まっていた。
そこに帝国政府の南大河州統領指名における高圧的なやり方が重なり、ファロウピーリャ革命として爆発した。1835年9月18日の夜、独立派が会議を開き、20日までに州都ポルト・アレグレを軍事的に占拠し、州統領を解任することを決定した。
帝国軍と戦いつつ、36年9月11日にリオ・グランデンセ共和国宣言を読み上げ、独立を果たした。そこから約10年間、独立を死守するため死闘を繰り広げ、戦死者は4万7829人に上った。そして1845年3月1日、州統領の選出を革命参加者(ファロピーリャス)から行う事などを条件に共和国政府は帝国と和平協定を結び、帝国の一部に再編入されることとなった。
リオ・グランデンセ共和国建国にまつわる一連の出来事は、南部では「革命」と呼ばれるが、他地域では「戦争」や「反乱」と呼ばれることも多い。
ガイドのジゼラさんは、「私たち南大河州人にとって、ブラジルで最初に共和国を創立したことは今でも誇りなんです」と胸を張った。
イタリアの伝統衣装を着たジゼラさんの陽気な語り口を楽しみながら、ふるさと巡り一行は、目的地であるイボチ移住地に到着した。(続く、仲村渠アンドレ記者)