小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=3

 また、自動車が現われると四方から集まり、四角ばった黒い幌のフォード車をしげしげと眺めた。走り出すとガソリンの臭いが香ばしいと、後を追ったものである。その頃の自動車は子供の走る速度とほぼ同じくらいで、一同は村の外れまで一緒に走った。如何とも悠長な農村風景であった。
 いま、リオ・デ・ジャネイロの港湾を旋回している飛行艇を眼のあたりにして、律子はその躍動美に見惚れ、自分が従軍でもしているかのような錯覚にとらわれた。あの悠長な村に住んでいる友人たちに見せてやりたいものだとしきりに思った。
 
サントス上陸
 
 田倉惣一は四十二歳になっていた。奈良県の盆地法貴寺の旧家の出で、兄と二人兄弟であった。兄は日露戦役にも参戦した勇士で、篤農家としても知られていた。が、田倉は農業に熱意がなく、年頃になると青年団に身をおき、酒と女に明け暮れ、軍隊に志願した。
 何年か後に伍長勤務として退役し、村人からは不良の田倉が伍長勤務になったとちやほやされたという。ちょっとしたことで不良呼ばわれされ、少し出世すれば持ち上げる村人の了見の狭さには肌が合わないと、村を離れて巡査になった。二〇何年かを務め、恩給がついたのをしおに故郷に帰った。
 兄から仕分けされた土地を耕し、恩給と合わせての生活をはじめたが、すでに三人の子供がいて、一家五人の暮らしを支えるには充分でなかった。農業の傍ら適当な職を探してはいたが、もとより不景気のどん底にあったその頃の日本では、一家を支える給料を支払ってくれるところは難しかった。
 田倉は若い頃からの放蕩癖が抜けず、つましい生活の中にありながら時には料亭などに遊んでいたのである。細ぼそとした家計のもとに生きていた農民とは一肌違った放埓さ、豪放さがあって飲み仲間では可なり幅を利かせていた。しかし、生活は落ち込む一方であった。妻のはぎはまた次の子を身ごもったことを知らせた。産児制限など考えるべくもなく、むしろ《産めよ殖やせよ》と奨励していた時代で、その効果がありすぎて人口過剰となり、政府は満州へ兵を送り、満蒙開拓移住を勧めると同時にブラジルへの移住も大々的に奨励していたのである。
 一家の将来を考えると、この村に居座っていても何の目途も立たない。むしろ海外で一か八かの賭けをやるのも男の生き甲斐であるかもしれぬ。田倉がそのことを兄に話すと、戦争体験のある兄は満蒙への移住は危険が伴うとして反対した。

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