ゼレンスキーと会わざるをえない状況に
エスタード紙ブラジリア支局のエドアルド・ガイアー記者は20日付で《ウクライナ戦争:ルーラはブラジルの立場を巡りG7の罠にはまる》(1)という興味深い記事を書いた。それによれば、ルーラは元々、ロシア批判の共同声明に署名するよう圧力をかけられることなく、ウクライナ戦争に対する中立的な立場を守ったままで切り抜けられると確信したからG7に参加した。
だが親ウクライナのG7主催者側は直前に、ゼレンスキーの電撃参加という外交的なアクロバットを演出して、グローバルサウスのリーダーらがウクライナ大統領に会わざるを得ない状況を作り、ブラジル、インド、インドネシアを自陣に引きずり込む〝罠〟を張ったと同記者は見ている。
20日付ブルームバーグ紙《ゼレンスキー氏のG7電撃出席でルーラ氏とブラジル側近は圧力にさらされる》(2)も同様に、《ゼレンスキー氏は土曜午後、フランス政府専用機で広島に到着したが、この訪問は前日まで秘密にされていた。ブラジル代表団の一部のメンバーは、ウクライナ指導者の出席は会談を強行するための「罠」だったと主張する一方、ルーラ氏は日本に来た後にその訪問について知ったと不満を漏らす者もいたと当局者は述べた》と報じられている。
振り返ればルーラは4月初めの訪中時、米国と欧州連合にもウクライナ戦争の責任があると述べて、世界的に波紋を呼んだ。いわく《米国は戦争を奨励するのをやめ、平和について話し始める必要がある。平和はすべての人の利益であり、戦争は両国にとってのみ利益があることをプーチン大統領とゼレンスキー氏に納得させるために、欧州連合が平和について話し始める必要がある》と明言し、米国や欧州連合からの批判を浴びた。その立場をひっくり返すための外交的な〝罠〟が仕掛けられたとの見方だ。
前記エスタード記事には《ルーラ氏が国際的な圧力に屈してゼレンスキー氏と会談すれば、まだ会っていないウラジーミル・プーチン氏が鼻を向けるだろう。あるいは、今回の包囲網を無視して、ウクライナの会談要請を受け入れずにブラジルに戻れば、ウクライナの側につくことに抵抗するルーラの姿勢に西側社会、特にG7諸国は苛立ち、ほとんど激怒だろう》と分析。
当たり前だがゼレンスキーは対ロシア戦争での同盟関係を拡大するためにG7に来た。それに会うことは、その姿勢に対する一定の理解を示すことになりかねない。
さらに同エスタード記事は《ルーラがゼレンスキーと同じ町にいる以上、会わない理由はない。この土曜日(20日)、ルーラはマクロン仏大統領と会談し、そのすぐ横の会議室ではゼレンスキーがインドのモディ首相と会談していた。追い詰められた。ルーラは政治的危機に直面する選択を迫られている》と締めくくった。
ウクライナとの会談が最初から予定されていれば、ルーラは参加しなかったかも。でもブラジルが参加表明した後に、この話が降ってわいた。ここでゼレンスキーに会えばプーチンを裏切ることになり、会うことを断れば主賓のG7諸国からの激怒を買う。ゼレンスキーの登場によってルーラは選択を迫られた。
会わなかったことは〝勝利〟とグローボ
同記事の翌日21日(日)、ルーラは結局会わなかった。会談は設定され、ルーラは「部屋で待ったが、ゼレンスキーの方が来なかった」と相手のせいにして切り抜けた。23日付本紙記事《G7サミット=ゼレンスキーがルーラとの会談すっぽかし「さぞがっかりだっただろう」と皮肉まで》(3)では次のような報じる。
《会談の提案は19日にウクライナ側から行われていた。ルーラ氏は当初、乗り気でなかったが、21日の15時15分に行われる予定だった会議に姿を現さなかったのはゼレンスキー大統領の方だったという。
この件に関し、ルーラ氏は「会談を開くことになっており、待っていたのだが、遅れているという連絡をもらった。その間、ベトナムの首相と会って1時間ほど話していたのだが、同大統領と別れた後もゼレンスキー氏は現れなかった。きっと他に約束があり、来ることができなかったのだろう」と語っている》と本紙記事にはある。
なぜゼレンスキーが会談会場に現れなかったのかは、ナゾだ。
オ・グローボ紙22日付はG7サミットの成果を分析する記事《飢えとゼレンスキー大統領との意見の相違と闘う:G7でルーラは3勝2敗》(4)の中で、《(G7)最大の勝利は、ゼレンスキーとの意見の相違だった》と論じた。会わなかったことがルーラに良かったとする。
いわく《大統領府情報筋によると、直前に分かったゼレンスキー訪問でブラジル大統領は追い詰められたという。ウクライナ側の会談要請への対応が当初遅れた後、ブラジル政府はルーラ氏が会談可能な時間を提案したが、ゼレンスキー氏には実現不可能だった。一進一退の末、日曜日の朝、ルーラ側近は別の時間で開くことで合意したとさえ発表した。しかし午後7時頃、ブラジル代表はもう会談を開催しないと表明した》
22日(日)、ゼレンスキーにはバイデン氏、岸田文雄首相との会談に加え、原爆投下犠牲者を追悼する記念碑への献花という大事な予定が組まれていた。
ゼレンスキーはルーラ会談に関して記者会見で「誰もがそれぞれの目的を持っている。そのためブラジル大統領と会うことができなかった」と述べた。記者団にルーラに会えなくて残念だったか尋ねられ、「彼はがっかりしたと思います」とにやにや笑いながら答えたと報じられている。
ゼレンスキーと会談するようルーラに圧力
ここで重要なのは、この件に関する米国などG7側の動きだ。ゼレンスキーとの会談に対して、ルーラが迷っている最中の20日、ホワイトハウス国家安全保障問題担当大統領補佐官ジェイク・サリバンは「バイデン米国大統領がG7期間中にルーラ大統領と会談し、ウクライナ戦争について話し合うことを希望している」と述べた。
同じ20日(土)、マクロン仏大統領はルーラとの会談の中で、ゼレンスキーと会うように求めたと報じられている。当然、他のG7代表からも同様のプレッシャーがあっただろう。
20日付スプトニク・ブラジル記事《G7:バイデンはウクライナについて話し合うためにルーラとの会談を試みる。イタマラチは「不当な圧力」と認識》(5)によれば、ブラジル外務省としては「誰がゲスト参加しようとかまわないが、会談を強いられるのは不本意」との立場で、この圧力は「不適当だ(inadequada)」と見ていると報道されている。
結局、ルーラは21日、G7「平和で安定した豊かな世界に向けて」作業部会でバイデン大統領と顔を合わせて短時間会談し、2人で写真を撮った。ブラジル外務省は何が議論されたかどうかは説明しなかった。
ここから先はまったくの個人的な推測だ。G7側はゼレンスキーに会うようルーラに圧力をかけたが、ルーラの意思が固いことを確認したバイデンは早々に説得を諦めて会談を切り上げた。バイデンが説得してもダメならと、ゼレンスキーは「どうせ会っても成果はない」と考え会場にすら行かなかったのかも。
つまり、元々会うつもりのないブラジル側がウクライナ側にムリな時間を設定したため実現が難しくなった上、会見しても成果が薄いことが予想されるため、ルーラとの会談には行かなかったのかもしれない。中ロ側もG7側も激怒させずに収めたという意味では、ルーラは案外うまく立ち回ったと言えそうだ。
「戦争の議論はG7でなく、国連ですべき」
オ・グローボ紙22日付《飢えとゼレンスキー大統領との意見の相違と闘う:G7でルーラは3勝2敗》には興味深い逸話が紹介されている。ルーラとゼレンスキーはG7共同セッションで1回だけ同席している。そのセッション開始時、登場したゼレンスキーに各国代表が駆け寄って次々に挨拶したのに対して、ルーラは自分の席から立ち上がらず、じっと書類に目を通していた。
同セッションでルーラは、ゼレンスキーの向かい側に座って「ウクライナの領土一体性の侵害」を非難し、「紛争解決の手段としての武力行使を断固として拒否」とロシア批判の声明を演説した。だがそれと同時に中ロに対する「敵対ブロックの形成」も批判、「多極的な世界秩序への移行」のための世界協力の必要性を強調した。G7代表の面前で、ロシア経済制裁を批判し、G7ではなくG20重視を訴えて、ルーラは自分のポジションを堅持した。
オ・グローボ紙21日付け記事《ルーラ氏、G7には「ウクライナ戦争について議論するため」に行ったわけではないと述べ、紛争における米国と同盟国の役割を批判》(6)によれば、ルーラは《「私はウクライナ戦争について議論するためにG7に来たわけではない」と述べ、「ここでは経済と気候問題について議論するために来た」「戦争についての議論は国連で行われるべきだ。戦争を議論する場はG7やG20ではなく、国連の安全保障理事会にある》と訴えた。
ところが21日、G7でバイデン大統領はゼレンスキー大統領と会談し、ヨーロッパの同盟国によるアメリカ製のF16戦闘機のウクライナへの供与を容認することにした。戦車に続いて戦闘機まで供与することでロシアを追い詰める形だ。
ルーラの言う《米国は戦争を奨励するのをやめ、平和について話し始める必要がある》と真っ向から対立する内容だ。このままロシアを追い詰めたら、いずれ核兵器を使いかねない。追い詰める決定打が広島で打ち出されたと後世から評価されないことを、日本人としては心から祈りたい。
ルーラの肩を持つつもりはないが、G7は和平を調停する場にふさわしくない。戦争の当事者両側が揃わない場で調停をしても意味がない。そのために国連があるのだろうし、現在の国連にその力が無いことが明確な以上、改革しないと戦争はなくならない。
だがG7側はゼレンスキーを電撃参加させることで、G7の中心議題をウクライナ戦争にしてしまった。ルーラは21日、G7最終日の記者会見で中国、ブラジル、インドなどのグローバルサウスは和平を議題にしたいと思っているのに、G7諸国に代表される〝北〟は「戦争を望んでいる」と痛烈に批判した。
具体的には《昨日のバイデン大統領の演説では、平和について何も語らず、ただロシアはウクライナから退却しなければいけないと言うのを聞いた。そんなことが起きるだろうか。つまり、片側は戦争を望み、逆側は平和を望む。平和を望む側が勝者になることを期待する》という厳しい一言だ。
オ・グローボ紙22日付は《国際報道では、ゼレンスキー大統領がブラジル大統領と会談しなかったことやインドとの儀礼的会話は、発展途上国に気に入られるというウクライナの計画の挫折であるとみなされた。モディ首相は戦争終結に向けてできる限りのことを行うと述べたが、中立の立場を堅持した》とも報じた。
ウクライナ大統領はインド政府に対し、中立の立場を離脱し、ロシアによるウクライナ領土の侵害を認めるよう求めたが、インドは応じなかった。モディ印首相は〝儀礼的にこなす〟外交ができる人物だが、ルーラはガチンコの対話を選ぶタイプという違いが、今回の行き違いを生んだ背景にはある様だ。
中ロに早速G7の報告をしたルーラ
ルーラはG7から23日に帰伯した。翌24日、ルーラは習近平中国国家主席と早速電話会談を行った。25日付テーラ《ルーラ氏、中国国家主席とBRICSとウクライナの平和について話したと語る》(7)。
さらに26日、今度はプーチンと電話会談した。26日付スプトニク・ブラジル《プーチン大統領、ビジネス会議を中断してルーラ氏と会談》(8)の記事では、プーチンの招待をルーラが断った件ばかりが注目を浴びている。だが本当の議題は「G7でどんな話がされたのか」をルーラが報告することだった可能性がある。
ある意味、ルーラは中ロと親密な関係を維持しつつ、その代弁をしにG7に参加した。ルーラはオ・グローボ紙21日付け記事《ルーラ氏、G7には「ウクライナ戦争について議論するため」に行ったわけではない》の中で、こう語った。《私が感じているのは、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も今は平和について話していないということだ。私には、彼らはどちらも誰かが勝つと信じており、和平について議論する必要はないと信じているように思える。和平は双方が望む場合にのみ可能だ》
つまり、ルーラにとって戦争当事者に直接会うには、まだ機が熟していない。双方に厭戦気分が高まった時にこそ、会うべきだと考えている。それはそれで一つの見識だろう。(敬称略、深)
(1)https://www.estadao.com.br/internacional/direto-do-g-7-lula-cai-na-arapuca-leia-a-analise/