結局ブラジル移住と決め、妻の身が二つになるのを待って一家六人、四十五日の航海に乗り出したのである。ところが、移住先のブラジルの第一歩はこうした革命騒ぎである。大海原に彷徨う漂流者のような心境となり、周囲の風景に見惚れるどころか、あまり利口な移住ではなかったのか、とさえ思えてきた。
移民船《らぷらた丸》は夕刻まで、港湾管理局宛てに打電をつづけたが、結局、先方からは無回答であった。夜になって船はサントス港に向かうため錨を揚げた。サン・セバスチョン沖を航行中、一隻のモーターボートに追跡され、停船を命ぜられた。縄梯子がなげられ、士官らしい黒服の二人が甲板に上がってきた。
大嶋船長は訪日帰りの二世の青年を通訳に、日本からの移民船であること、リオ・デ・ジャネイロ港では移民局との連絡がつかず止むなくサントス港に向かっている旨を説明した。二人の男は移民船と知りながらも船艙、その他の船室を隅ずみまで点検し、
「サントス港は、革命軍によって支配されている。リオ・デ・ジャネイロ港を無事通過したという証明書を持っていくがいい」
と言った。そこで、大嶋船長と通訳、移民輸送監督の鷲塚時哉の三名が仕官たちのボートでアングラ・ドス・レイス港の軍司令部へ向かった。
どういう事態になるのか、これから先の移民たちは如何なる掟の下に支配されるのか気が気でない。そうでなくても永い航海で疲れている船客には、一時間が一日の長さにも感ぜられた。二時間ほどして、大嶋船長たちは無事帰ってきた。サントスの入港は問題ないだろうと言われ、移民たちはほっとして安堵の胸を撫でおろした。
七月二十六日、十七時過ぎ、《らぷらた丸》はサントス湾に接近、港に向け徐行していた。ところが、再び革命軍のランチによって誰何された。アングラ・ドス・レイスで取得した書類を提示したものの、革命軍は入港の許可を与えず、港外への退去を命じた。
二十七日、移民船は漸く接岸を許される。正午から上陸がはじまり、移民たちは緊張した面もちで手荷物を抱えながらタラップを降りた。海外だということで帽子を被って化粧を施した女性もいれば、船酔いのため頭髪もボシャボシャのまま赤ん坊を抱いた中年の女性もいる。その頃流行の長いスカートに少しは洒落た靴を履いているが、姿勢が崩れていて、どう見ても旅慣れた旅行者とは言えない。