《記者コラム》桂植民地で成功して錦衣帰国=知られざる難波梅太郎の生涯

岡山の親族から貰った貴重なプレゼントの前に立つ武本憲二

武本由夫(よしお)の義父は桂植民地成功者

 「祖父の難波梅太郎は1910年に第2回移民船で渡伯し、米作りで成功して錦を飾って帰国しました。ですがその後、1933年にまたブラジルに戻ってきました。ちょっと珍しいパターンではないですか?」――そう武本憲二さん(79歳、3世)から尋ねられて驚いた。たしかに珍しい。
 武本さんの父・武本由夫は、「地平線」「椰子樹」「コロニア文学」「コロニア詩文学」などの創刊同人だっただけでなく、文学賞に名を残したコロニア文芸界の重鎮だ。日系文学界で知らない人はいない有名人であり、その息子として憲二さんもブラジル日系文学会の会長を務めた経験を持つ。
 だが、今回はそれに加えて母方の家族にも大変興味深い歴史があることが分かった。さっそく詳しい話を聞いてみた。

「第2回移民船」旅順丸でブラジルへ

難波梅太郎(憲二さん提供)

 そもそも戦前移民で成功して錦衣帰郷した人自体が大変少ない上に、米で成功というのは聞いたことがない。普通はコーヒーだ。「第2回移民船」旅順丸のサントス港到着は1910年6月28日。第1回移民船から丸2年経って、ようやくきた第2回移民だ。竹村移民会社は906人の農業移民と3人の自由渡航者を乗せてきた。
 その一人が武本さんの母方の祖父、難波梅太郎だった。1884年に岡山県赤磐市で生まれた。妻娘と3人で、最初はグアタパラ耕地で農業労働者として働いた。だが当時は奴隷制廃止から20年程度で、農業労働者には奴隷同然の待遇が残っている時代だった。多くの移民と同じく夜逃げをして最初の日本人街であるサンパウロ市コンデ・デ・サルゼーダス街(以下、コンデ街)に住むようになった。
 大工として日銭を稼ぐ生活をしたと言う。サンパウロ人文科学研究所刊の移民史年表(https://www.brasilnippou.com/iminbunko/Obras/17.pdf)の1911年9月11日項には、《サンパウロ市の市立劇場Teatro Municipal落成。(この建築工事には第1回移民の退耕者も就労)》とある。当然難波も同じセントロ地区にあるコンデ街の日本人仲間から誘われて大工の一人として建設に動員された可能性が高い。
 東京シンジケートからイグアッペ植民地造成の仕事を引き継いだブラジル拓殖株式会社の青柳郁太郎は1913年9月頃、日本移民史初の永住型入植を前提とした「桂植民地」の入植者募集のためにコンデ街を訪れた。植民地計画には当然、住居建設が伴うので大工は最も必要とされる人材だった。
 このブラジル拓殖会株式会社の創立委員会には桂太郎(首相)、渋沢栄一、高橋是清(日銀総裁)ら当時の蒼々たる政財界の重鎮が関わった。日本の人口は1900年代の10年間に12・1%、1910年代には12・9%という激増状態だった。将来を展望して米生産拠点を確保することは、当時喫緊の課題だったから主要な政財界人が参加した。
 米生産拠点の選択肢の一つとして、南米に日本移民を送り出して生産させるアイデアが生まれ、同拓殖株式会社によるイグアッペ植民地建設につながった。その巨大な建設計画の最初の試験台が桂植民地だった(『一粒の米もし死なずば―ブラジル日本移民レジストロ地方入植百周年』38ページ、ニッケイ新聞編、無明舎出版、2014年)。

米作で成功して1926年に錦衣帰国

 同年11月には約30家族が入植を開始。「国立国会図書館憲政資料室日本移民関係資料 橋田資料」(レジストロの福澤一興さん提供)によれば、難波梅太郎は1918年に桂植民地での生活状況について、こう証言した記録が残っている。
《桂植民地補助植民地区第四号、難波梅太郎、岡山県人家族夫婦子供三人
 私は竹村商会の第一回で明治四十三年七月に渡航し、直にガタパラ珈琲耕地に入り後サンパウロ市に出て、大工をなし、大正二年十一月御地に参りました。
 私は内地では色々の商業をしておりまして本気で農業をしたのは御地が初めてで有ります。本年は精を出して働きました処二百七十袋以上の収穫がありました。本当に働くのは私計りで妻は子供が居るので手助けはしましたが殆仕事は出来ませんから、極めて世話しい時にはブラジル人を雇いました。本年は諸物価が高く、食料諸経費も多く入りましたが、それでも差し引き一コント二三百の純益を得ました。
 一昨年都会は不景気で若し仮契約の地で働いていたなら金を借す人もなく困難したでしょう。何しろ都会は儲かる時は儲かりますが其の代り費用も多く入りますから結局手に残る金は僅かで御座います。それに私は子供の教育は如何にすべきやと年来心配して居りました処、本年六月より当地に小学校が出来、毎日子供も嬉しと通学して居りますので、一番安心を致しました。生活には安定であるし、子供の教育は出来、それや、これやを考えますと当地に来たのは幸で、私も大いに満足して居る一人で御座います。本年で契約が済ましたから、六月に当地区を譲り受けました。追々家屋の手入れをなし、尚一層精を出して働きたいと存じます》とある。
 土地も取得して本格的に農業を営んでいたことが伺える。ここで武本さんの母・正子が生まれた。ここで米作によって成功し、念願の錦衣帰国を1926年に果たした。イグアッペ植民地全体で見ると、米作は最初こそ基幹作物として期待されたが、気候が合わず、大半がサトウキビ、バナナ、紅茶など他の作物に乗り換えざるを得なかった歴史がある(『一粒の米』77ページ以降)。
 当時、大半の移民が5~10年で大金を稼いで錦衣帰国することが目標だった。99%はそれを達成できなかった中、難波は米作により16年間で成しとげた。

1933年に再渡伯、アサイ移住地へ入植

 憲二によれば「帰国した後は大阪で商売をしていたそうです。母は10歳から18歳の多感な時期を日本で過ごしました。ブラジル育ちだったので、日本の学校では他の生徒と同じ日本語能力がないことから辛い目に遭っていたようです」とのこと。現在でも帰国子女が日本の学校でいじめに遭うことは日常的に起きており、まして戦前に起きていても何ら不思議はない。
 だが、その商売も結局はうまくいかず、夫婦と子ども4人で1933年6月24日サントス港着のはわい丸で再びブラジルに戻ってきた。夢の帰国から7年後のことだった。サンパウロ州奥地のヴァルパライゾにあるサンタローザ耕地に配耕されたが、翌1934年にはパラナ州北部のブラ拓移住地「アサイ」(トレスバラス)に転耕した。『トレスバラス移住地五十周年』(五十年史編纂委員会、)によれば、アサイは1932年創設なのでまさに草分けの一人となった。
 だが、同書で難波梅太郎名が記述されているのは2カ所のみで、特に日会役職などを歴任したような経歴は見当たらない。だが、そんな一般入植者の中に、桂植民地で一度は成功したような人がいるという事実にこそ、移民史の深みがあるのかもと考えさせられた。

武本由夫は1930年にアリアンサへ

武本由夫

 一方、憲二の父由夫は1911年10月に岡山県赤磐市で生まれ、1929年に閑谷(しずたに)中学校を卒業した。ここは、江戸時代前期の寛文10年(1670)に岡山藩主池田光政によって創建された、現存する世界最古の庶民のための公立学校だ。
 その翌年1930年に構成家族の一員として渡伯し、第1アリアンサ移住地に入植。ここには当時、蒼々たる文化人が集まっていた。同移住地研究者の渡辺伸勝さんは「海を渡ったデモクラシー」(『地理』2008年10月号、古今書院、東京)のなかで、「大正デモクラシー期の政治・文化・社会の特徴を体現する人びとや、この時期に活躍した人物の関係者が数多くアリアンサ移住地に移住している」(64頁)と書き、その具体例として次の人物名を挙げる。
 高浜虚子が中心となって盛り上げていたホトトギス派俳句では、彼の愛弟子である佐藤念腹(謙二郎)が1927年にアリアンサに入植した。東京帝大工科を卒業した橋梁技師の木村貫一朗(圭石)も同派俳人で、1926年に移住した。短歌界では、アララギ派の島木赤彦に師事した岩波菊治も同年に入植し、この3人が中心になって当地最初の文芸雑誌『おかぼ』を創刊した。
 1928年に入植した与謝野素は、詩人の与謝野鉄幹の甥であり、農業技師として活躍した。その他特色のある人材としては、台湾総督府の官吏をし、移殖民研究をしていた渋谷慎吾(東京帝大法科卒)も1928年に入植した。
 民本主義の提唱者として有名な東京帝大法科の吉野作造の姪、吉野友子も女子師範学校を卒業して1928年にアリアンサに入った。移住地を離れてからは邦字紙初の女子事務員となった。
 そのようなインテリ移民の若手として武本由夫は入植し、それらの人々が高齢化して他界した戦後、コロニア文芸界を支える重要な役割を果たした。
 武本由夫は1930年代後半、サンパウロに出た。1937年、アサイ移住地の難波梅太郎が、武本さんと同じ岡山県赤磐郡出身だという縁から、親同士が話し合って縁組みをし、由夫がアサイ移住地に会いに行った。そこで1年間日本語教師をする傍ら歌会も開催し、娘の正子を紹介されて結婚し、そこで憲二の兄阜夫が生まれ、妻子を連れてサンパウロ市に戻った。
 その後、難波梅太郎もサンパウロ市に出て、1939年5月に55歳の若さで労多き先駆者人生を終えた。その当時「地球を一周半も回って2度も外国で生活を立て直した庶民」という生き方は、とても稀だった。
 第2次世界大戦の足音が近づくに従い、ゼッツリオ・バルガス独裁政権は移民子孫の同化強制政策、邦字紙廃刊などの移民抑制策を打ち出すようになった。1942年1月には公共の場での日本語禁止、日本移民の移動に事前許可申請が必要になるなど、サンパウロ市は生活しづらい場所になった。

日本育ちの母は二度と日本の地を踏まなかった

1946年、武本由夫、武本正子、武本憲二、武本阜夫(憲二さん提供)

 だがサンパウロ市近郊のスザノ福博村、モジ市コクエイラ植民地などではまだそれほど厳しくない状況があったので、武本由夫は戦争開始前からそちらに住む友人に呼ばれ、引っ越しをして日本語学校教師などをするようになった。そのコクエイラで1944年に誕生したのが憲二さんだ。
 終戦後は再びサンパウロに行き、ピニェイロス区にあった暁星学園(岸本昂一園長)で日本語を教え、岸本が創刊した雑誌『曠野の星』編集長などを務めた。その後、数々の日系文学誌創刊、運営編集、短歌指導などで活躍した。
 1959年、日伯文化普及会は「日本語教科書刊行委員会(委員長:山本喜誉司)」を設けて編纂に着手した。第1期日本語教科書全8巻が1961年4月に完成、次いで第2期高学年用4巻は1964年6月に完成。武本由夫は主要な役割を果たし、この教科書は80年代まで全ての日本語学校で使われた。
 憲二は「自宅には父が教科書ゲラの校正をして赤ペンで指示を入れた現物があったので、2018年に移民史料館に寄付しました」と語る。
 1971年に由夫は2カ月間、訪日した。40年ぶりの日本だった。その際、憲二は母に「日本に行きたいか」と尋ねると、「行きたくないわ」とアッサリ断ったと言う。母は戦後、一度も訪日しなかった。複雑な思いが日本に対してあったに違いない。
 1983年1月21日、由夫が亡くなった際、当時3紙あった邦字紙にはたくさんの追悼文が掲載された。その業績を顕彰するために同年、コロニア詩文学会は武本由夫文学賞を創設し、今年第37回を迎えた。2003年1月21日、日系文学会と椰子樹社は武本没後20周年を記念して顕彰碑を、サンパウロ市リベルダーデ区アルメイダJR広場に建立した。
 日本移民最初の永住移住地で成功した難波家が錦衣帰国したことだけでも珍しいのに、再渡伯してその一員がコロニア日系文学を代表する人物と結婚して、移民史に名を残した。移民史には苦労話だけでない、様々な興味深い逸話が刻まれている。(敬称略、深)

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