《記者コラム》アストラッドの死がブラジルで話題にならない理由

アストラッド(Ron Kroon/Wikimedia)

 5日、かの「イパネマの娘」を歌ったことで知られる女性歌手アストラッド・ジルベルトが亡くなった。ボサノバの存在を世界に知らしめた人だけにその訃報は国際的に注目された。だが、ブラジルでの扱いは想像をはるかに下回るものだった。
 ヒタ・リーやガル・コスタが亡くなった日、ブラジルの大手ニュース・サイトの紙面の上半分は彼女たちの訃報記事と写真で埋まり、その日の「読まれた記事」ベストテン上位を独占した。
 だが、アストラッドの訃報は他の一般記事と変わらない写真付きの小さなもので、読まれた記事でもベストテン圏外。ヒタやガルの時にはたくさん寄せられた政界や芸能界からの弔辞もほとんど見られなかった。
 こうした扱いの差は、コラム子がブラジルで生活し始めた頃からの謎だった。同じボサノバでもジョアン・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビン、エリス・レジーナは伝説的存在として語り継がれているのに、アストラッドの名前は全く上がってこない。
 この疑問の答えが7日付フォーリャ紙の彼女の訃報でようやく明らかになった。
 記事によると、1964年、米国のレコード会社がジョアン・ジルベルトと米国サックス奏者スタン・ゲッツの共演盤「ゲッツ/ジルベルト」の米国での販売を企画した。このアルバムにはジョアンの妻アストラッドがヴォーカルとして数曲参加していた。レコード会社はアストラッドの英語の歌入りの「イパネマの娘」をシングル盤として発表することにしたのだが、これが全米5位まで上がる予想外のヒットとなり、グラミー賞の最優秀レコード賞まで受賞してしまった。
 これ自体は快挙だったのだが、問題はブラジルでアストラッドが全くの無名だったことだ。この曲の国際的ヒットでブラジルでもアストラッドへの関心は高まった。だが彼女はジョアンと離婚し、米国での音楽活動を希望。コンサートでブラジルを訪れたのは1966年にわずか1回で、この時の公演も不評に終わっていた。
 そして1972年を最後にアストラッドの作品発表のペースも5〜10年に1度になり、最後の作品発表も20年以上前。生活もずっと米国のままでブラジルとは50年近く縁がない状態だった。
 加えて1960年代には「国際的な偉業」というものの価値が理解されていなかった可能性もある。
 日本でも、「上を向いて歩こう」で全米チャート3週連続1位という偉業を為した、かの坂本九が、日航機墜落事故で1985年に亡くなる前の約10年間は、歌手ではなく、司会やバラエティ・タレントとして知られるという経歴に見合わない扱いとなっていた。アストラッドの場合も、ブラジルへの疎遠ぶりに加え、偉業への無理解が重なってしまったのかもしれない。(陽)

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