小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=16

「律子、起きろよ」 
 父親の田倉の声がした。
「ああ、しんどいな」
 律子は、声をかけるだけで自分から起きようとしない父親を恨みながら、寝床から半身を起こした。手探りで枕もとのマッチを取り、左手でカンテラのほやをはずし、それに点火する。赤い力のない灯りがぼおっと、辺りを照らした。三メートル四方の、これといった家財道具のない部屋は寒々と見え、天井のない屋根瓦までの空間が、うつろに広がっていた。
 律子はほつれた髪の毛を後ろに撫で上げ、乱れた寝間着の前を合わせて立ち上がった。土間に下り、板壁に吊ってある仕事着と取り替える。律子の身体はぴちぴちとしていて、胸もとや腰の周りに若さが溢れている。ただし、足と腕はブヨと蚊に刺され、その跡が化膿して絆創膏や白い包帯を巻いているのが痛々しい。この地の人びとは虫に刺されても皮膚に免疫性があるのか平気であるが、新入者は温室の植物のようにひ弱く、ちょっとした傷が化膿し、容易に治らぬばかりか、その傷に蝿が卵を産みつけたりしてさらに悪化させた。
 律子は肉に癒着した包帯をオキシフル剤で濡らしながら剥がす。膿でただれた腫物は眼に痛々しい。多少快方に向かっているのもあれば、悪化しているのもある。洗浄した患部に、白い薬を塗り、また包帯で巻いて野良着を着けると、溌剌とした娘に見えた。
 律子は、家の裏薮の奥へ四、五〇メートルも歩いて、草むらにしゃがんだ。屋内に便所がないので、野外で用を足すのである。最初の頃は汚物に鍬で土をかけたものだが、直ぐに放し飼いの豚どもがやってきて掘り返してしまうので、近頃は土地の人びとと同じように放置している。
 野原の朝風は冷たい。冬期なので下半身がじんと冷える。そんな季節でも薮蚊がいて幾匹もまとわりつく。片手で蚊を追いながら、人眼を気にして用を足すのは落ち着けず、つらかった。草を揺り動かして近づくものがあった。豚らしい。早く用を済ませないと、後方から鼻でお尻を衝き上げられてしまう。
 都会を何百キロも離れた僻地でこのような原始的生活がいつまで続くのかと思うと、惨めになる。早くこれを乗り切って、生活改善に繋げなくてはと己を励ましていた。
 冴えた空には、まだ満天の星が瞬いていた。律子は、二つのバケツを提げて井戸水を汲みに行く。井戸まで二〇メートルあって、両側にはバナナの株が並んでいる。広く長い葉面は、透明な朝露を宿している。

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