庶民は、買い溜めもするが、利子は低いが、政府の保証が厚く出し入れ自由なポーパンサという、日本の郵便預金のような預金に金を預けて目減りを防いだり、資金に余裕のある人は、日割りで利子がつくオーバーナイトや、出し入れ自由な定期預金などに金を預けた。富裕層は、株や不動産に投資したり、インフレヘッジになる金や宝石を買い、ドルの売り買いで資金を運用して目減りをおさえ、なおかつインフレで大いに利益を上げていた。
さる日系の大手企業には金融担当というセクションがあった。というよりも、この当時はどこの会社にもこんなセクションがあって、それで会社の利益を確保していたのかもしれない。とにかく、その会社のそのセクションは、ほかのことは何もしないで、毎日、為替の動きや金利の動きにばかり目を光らせ、金を動かして金を儲けていたそうだ。
それを聞いた、こちらもさる日系の製造業の会社の社員が「物も作らず、サービスもしないで、金で金を儲けている」とそのありようを顰蹙して、大いに批判していたのを聞いたことがある。だが、この会社はこれで利益を上げて、会社の業績に貢献しているのであるから、それに文句をつけることはないのでは、と思うのは私だけだろうか。
実際のところ、インフレとは、これとうまく共生すればそれによって大いに儲けることが出来るのだ。さる日系の大手旅行社はドルの両替をやっていて、嘘か真か、ドルの売り買いの利益だけで会社の収益の半分は賄っているというし、ある中堅の旅行社では、その会社の社員の給料のほとんどはドルの両替からでている、とそんな噂も聞いたことがある。
そのころブラジルではクレジットカードは普及していなかった。ハイパーインフレの世で、使ったカードの決済が一カ月後では、その間のインフレによる目減りで、カードを使われる商業施設はたまらないからであろう。
クレジットカードが普及していなかった代わりに、当時よくつかわれたのが小切手だった。庶民は、さまざまな買い物から飲食代の支払いまで、よほどの少額な支払いでないかぎり小切手を使った。企業の場合も、支払は小切手が主体だった。ただし小切手の支払いは不渡小切手とかが多かったので、その点は注意が肝心だった。新聞やテレビや週刊誌では、毎月の不渡小切手の枚数と金額を報道して、庶民に注意を喚起していた。
とくに、不渡小切手には額面が多額な、はじめから犯罪的な不渡小切手もあり、これを掴まされたら、この金の回収は不可能であり、これはまことに要注意だった。
こうして、日々、ものの値段が上がりつづけているインフレの世の中で、正確にものの値段の変動が把握できないとき、それを少しでも正常な感覚に戻し、日々の経過のなかで、冷静な思考でものの値段の推移を把握するには、ドルに換算して考えるのがいい、と私は思っていた。
誰に確認したわけではないが、私の感じでは、インフレの動向とドルの動向は連動しているようで、いつも、ドルの値上がり率とインフレの上昇率は見合いで進行していたように見えた。だから、いつでも、ものの値段を、その日その日のレートでドルに換算すると、正確な値段の変化が目に見えてきて、実質的にそのものが値上がりしているのかどうかが、わかるような気がした。
「ドル信仰」といわれ、人々は自国の通貨よりもアメリカのドルを信頼した。自国通貨のクルゼイロは、明日、明後日、どうなるかわからないが、ドルは今日も明日も明後日も、いつも安定していて、人々を裏切ることはなかった。
とにかくこのころのインフレは深刻だったが、そうは言っても、庶民はそのインフレから逃げ出したり、追い返したり、とかということはできないのだから、庶民は、その日その日それなりに対応して行くしかなかった。
〈2〉コンフィスコ(預金封鎖)
三月十五日に発表された新経済プランは、のちに、ときの大統領の名を冠して、「コーロルプラン」と称されるようになった。コーロルプランの実質的責任者は、新政権により財務省と企画省を統合して新設された経済省の初代の大臣に抜擢された、ゼーリア・カルドーゾ・デ・メーロ女史だった。
彼女は、コーロル新大統領の従妹であり、サンパウロ大学出身の経済学者であった。彼女は、コーロルプラン発表後、新経済プランの立役者として大いに脚光を浴び、新聞や週刊誌やテレビやラジオの報道で、スーパーミニスターともてはやされた。
新聞やテレビで見る彼女は、金髪を真ん中で分けた髪をむぞうさに肩までたらし、下顎の張った、気性の激しそうな顔をしていた。彼女は、下顎が張っているぶん両頬の面積は広く、鼻はつんと尖がり気味に突き出ていて、目は鋭く相手を見据えている。
と、どう見ても「美しい」という表現が出てきにくい顔で、「優しさ」は感じられず、いつも胸中に何かの憤懣が渦を巻いているように、憤然とした面持ちをしていた。
三月十五日、彼女によって発表されたコーロルプランの要旨は、次のような内容だった。まず、千分の一のデノミネーションの実施。通貨の名称をクルザードノーボからクルゼイロに変更。金融商品取引税の導入。給与と物価を三月十五日の水準で凍結。優遇税制の廃止。物価スライド制の復活。公共料金の値上げ。公務員の削減。すべての銀行口座の八割の「金」を十八ヶ月間凍結する、これがいわゆる預金封鎖だ。
と同時に十五日から三日間のバンクホリデーも発表された。発表された新経済プランのなかで、個人生活にも、企業活動にも、即刻そしてもっとも直接的に影響するのが預金封鎖だ。預金封鎖は、すべての口座の八割を封鎖するというのだから、まだ二割の「お金」は巷に残っているということにはなるが、一夜のうちに、ブラジル国内に流通する「お金」の八割が巷から消えてしまったのだ。個人ではその日から買い物に事欠くことになり、企業でも預金封鎖は迷惑千万なことだ。
私の勤める会社としては、まず支払いと入金である。すでにいくつもの請求書が来ているし、いくつもの請求書が発行されている。支払期日が今日や明日に迫っている請求書の処理はどうするのか。会社ではドルの両替もやっているが、これはつづけてやって行けるのか。換算レートはどうなるのか。
あれもこれも不明なことばかりで、何をどうしたらいいのか手探りの状態のなか、いったいこれから何が起こるのか。誰にも皆目見当がつかず、不安や不審は募るばかりで、もやもやと考えているうちに、週が明け、月曜日がきて、仕事がはじまり、銀行が動きはじめると、現実が一気に動き出しそして押し寄せてきて、あれこれと考えている暇も必要もなくなった。
月曜日の朝、九時を過ぎて、会社が開いて、しばらく仕事をしていると、以前、日本の朝鮮高校サッカーチームのブラジル現地受け入れでお世話になった納谷さんがやってきた。大柄な身体に、ふてぶてしい面構えで、いつもの褪せてくすんだ黒いジャンパーを着ている。彼は、会社に入るとまっすぐに私の席まで来て、ぬっと顔を突き出すと、ぶっきらぼうに、「ドル、替えてくんない」とドルからブラジルの通貨クルゼイロへの両替を頼んできた。
だが、両替は私の管轄ではない。両替は会計の両替担当者がやっている。返答ができなくて、そばにいた社長に訊いてみると、社長は両替担当者の部屋に入って行きそしてすぐに戻ってくると、まだレートが出ていないと言う。いつも、銀行が開くのが十時半で、それを待っているかのようにして、その日のドルのレートが出るのは、十一時を過ぎたころになってからだ。
「それまで、待たなければなりません」と、そう納谷さんに告げると。彼は、もうここには用はないとばかりに、さっと身をひるがえすと、私に背中を向け、それ以上ものも言わずにさっさと立ち去って行った。彼は、またどこかの両替商か旅行社にでも行って、おなじことを訊くのだろう。
いまの彼の顔付きからすると、急いでいるようだ。急いで結論をつけなければならない支払いがあるのか、それとも、もしかしたら、ドルの動きについて何かの情報を掴んでいて、とにかく急いで、手持ちのドルを処理したいと思っているのか、彼は焦っているようだった。
それから二時間ほどした十一時過ぎ、その日のドルレートが出ると、ドルは暴落していた。両替担当の社員が自室から驚いたような顔をして出てくると、ドルが前週の金曜日のレートから土日を挟んで半分のレートに下がった、と言って騒いでいる。ドルがブラジルの通貨に対して下がるなど、天地がひっくり返るほどの出来事だった。信じられないことが起きたのだ。なおかつ、両替担当の社員は、今日中に、もっと下がるだろうと言っている。
私がブラジルに来て二十年になるが、いつだって、ドルが上がることはあっても、下がることはなかった。というか、ドルは上がるものであり、下がるものではないと思っていた。それが下がったという。こんなことが起こるなど想像したこともなかった。
が、しかし現実にはそれが起きた。が、しかしと私はもう一度おなじ言葉を内心で発して、少し冷静な頭になって考えてみた。しかしこれはドルの価値が急に下がったからということではないだろう。これは、ただ単に、急にクルゼイロの流通量が少なくなったからということなのだ。
考えてみれば単純なことで、一夜のうちにクルゼイロの八割が巷から消えたのだから、クルゼイロが不足して、クルゼイロが希少になり、相対的にドルがだぶつき、それで、ドルが下がったということだ。一時的に、人工的につくられた環境のなかで、ドルは暴落したのだ。
ドルはその後も下がりつづけ、ドルはその日のうちに、両替担当者が予言的に言った通り、前週の三分の一のレートにまで暴落してしまった。
銀行が開いて、支払い期日のきた請求書の支払の問題が起きていた。どうするか。銀行に預けている会社の資金の八割は封鎖されて使えない。これでは数日の支払いは凌げるとしても、そのあとの支払いに窮してしまう。(つづく)