小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=39

「この前な、町に出たときこれを見つけたんだ。正真正銘の菊正宗だ。一杯やるといい」
 岡野は田倉を抱えて座らせ、杯を差し出した。
「どうだ、おいしいだろう」
「ううん、久しぶりに、日本の味だな」
 一口、杯を傾けた田倉は、眼を閉じた。感無量という表情である。若い頃から酒になじみ、総ての友情は酒とともに培ってきた田倉だったし、交渉ごとにも酒は付き物だった。
寒い日など、障子のほの明りの中で、熱燗の酒を酌み交わしながら温める友情は、何とも言えぬものだ。だが、あの情緒はもう戻りそうにない。田倉は瞼の潤む感動に浸っていた。
「これでマラリアは撃退だ。ところで田倉さん、正直者のあんたには言いにくいが、察するところ生活は忍耐の限界にきているんじゃないか。あんたに万一のことがあれば、ブラジル移住の目的は無になってしまう。所期の目的を果たすためには、病気の根治が必要だ。そのためにもマラリア蚊のいない地方へ移転するのが第一と言われる。病気は治らぬ、働けぬ、では前途はない。これは先日、律子さんに話しておいたことだが」
「あいつ、何も……一体、何のことですか」
「耕地を逃げ出すという道もある。それを実行するか否かはあんたの判断次第だ。とにかく、先ず、健康地へ移るのが賢明な策だと思うのだが」
 田倉は聞いていたが、額にしわを寄せ、ごろっと横になった。それから、呟くように言った。
「わしには、どうって見当がつかんわ」
「二、三日考えたらいい。タツーの肝を持って、出直してくるからな」
 岡野は、田倉の痩せた肩をつよく抱いた。 

「お父ちゃんも思い切って決心したんやから、もうためらうこともあらへん」
 その日から律子とはぎは、引越しのために家財道具の整理をはじめた。
 コロノたちの住宅は一棟に二家族が住むようになっていて、隣家にはベネジッタ親子が居住していた。馴染みであるとは言え、田倉家の異常を感づくと、きっと監督に知らせるに違いない。そうならぬために、なるべく平常を装っている必要がある。夕食後の時間を利用してて、女子供でも背負いやすい大きさに荷造りをした。それは二晩で済んだ。食器や布団は出発間際まで残した。

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