永雨は漸く遠ざかり、鈴なりのコーヒーの実が赤から黒に乾きはじめていた。この地方のコーヒーは近年まれな豊作だった。コーヒー樹の間に蒔いた稲の穂も黄ばんでいたし、豆の収穫もはじまっている。数年の労苦が報われて入植者の顔も明るい。
夕焼け雲を背にして、コーヒー園を出てくる律子を和美が待っていた。いつものことで終日頬を保護していたスカーフで顔の汗を拭き、それをまた首に巻いて涼しい顔をしている。作業の疲れを感じさせない若さがみなぎっていた。二人は肩を並べて帰途についた。今年の豊作を喜び、収穫がおわったら一度町に出て白粉とか口紅を買いたい。父親まかせでは自分好みの肌に合うものが買ってもらえない。それから外出用の靴やらスカートも欲しい、と和美は言った。
律子は弟の浩二が欲しがっているカメラと、いま流行っている愛国行進曲のレコードを買ってやりたいと思った。けれど父親の病気がやっと快復したばかりだし、和美の父親の磯田さんにも借金があるかもしれない。そう思うと軽はずみな言葉も出せなかった。
「私の場合、町に出られるかどうか」
律子の気持ちは重かった。
と、突然、二人の背後から馬の蹄の音が近づいてきた。馬上には、大きなつばの麦藁帽子を被った一人の青年がいる。日本人のようだが添島植民地の者ではなさそうだ。
「何処かで見たことのあるような方だわ」
何故か、律子は足早に歩き出した。
「知っている人なら挨拶ぐらいしてもいいじゃないの」
「こんな野良着のままだし、困るわ」
律子はさらに足を早めた。和美は何のことだか解らぬままに小走りで後を追った。馬上の青年は郡道を横切らずに、真っ直ぐ二人の背後にせまってきた。
「添島植民地へはこの道を行けばいいのかな」
二人に追いついて、彼は尋ねた。
「そうよ、ここを真っ直ぐに行くの」
和美はつっけんどんに前方を指さした。
「そちらに、田倉という家族が入植されていると聞いてるんだが」
律子はどきっとした。紛れもない八代隆夫の声である。律子は振り向くことができなかった。いくらか歩調を落としてはいたが、立ち止まることはしなかった。これはどういうことなのか。かつて、このような心の動揺はなかった。あの頃、子供であった自分が、今、大人に成長した証なのだろうか。律子は激しい胸の鼓動を感じ、顔の赤らむのをおぼえた。