《記者コラム》「人の肉は豚のようにうまいぞ」=半沢友三郎の壮絶な戦争体験

司会を務めた福島県人会書記の遠藤勝久さん、講演する半沢さん、事務の渡辺三男さん

終戦記念日にちなんで戦争体験の講演会

 終戦間際のフィリピンで、米軍から隠れて森の洞窟に潜んでいた時、日本兵2人の片方が死んだ。それを見てもう一人から衝撃の一言が言われ、当時10歳余りの子どもだった半沢友三郎さん(87歳、フィリピン国ダバオ市生まれ)=サンパウロ州アチバイア市在住=は震え上がった。
 ブラジル福島県人会(佐藤フランシスコ会長)が8月27日(日)午後、サンパウロ市リベルダーデ区の同会館で半沢さんの講演会「太平洋戦争=フィリピン生まれの日本人が見た事実」を開催した。その際、日本語だけだったにも関わらず35人ほどが詰めかけ、固唾をのんで鮮烈な体験談に聞き入った。
 半沢さんの父周作さん、母ナカさんが福島県信夫郡鳥川村(現福島市)出身の関係で、同県人会が講演会を企画した。半沢さん本人は1935年12月22日にフィリピンのミンダナオ島ダバオで生まれ、第2次大戦時の激烈な「フィリピンの戦い」(日本軍侵攻は1941―42年、連合軍の占領は44―45年)を少年時代に経験。引き揚げ後、1959年2月サントス着のブラジル丸で渡伯した。

ルソン、ヴィサヤ、ミンダナオからなるフィリピン諸島。最南部にミンダナオ島ダバオ(seav, via Wikimedia Commons)

 1945年3月、マッカーサー元帥が率いる米軍がミンダナオ島に上陸した。父は海軍に手伝いを頼まれ、家族と離れて別行動。当時10歳だった友三郎さんは6人兄弟の次男として生まれたが、長男は友三郎さんが生まれる前に亡くなっていたので長男同様に育てられた。下の兄弟は上から八郎、久四郎、妹の友栄、千四郎だ。
 母親を中心に幼い子どもたちは、米軍の砲弾の音が聞こえるたびに奥地へ奥地へと逃げる生活を送った。半沢さんは2歳になったばかりの千四郎をおんぶし、友栄は母と手をつないで行った。弟2人、八郎と久四郎はリュックを背負ってとぼとぼ歩いた。
 小さい子どもがいたので、他の家族より歩くスピードが遅くて逃げ遅れた。それで橫道に入って隠れようとしたら、先住民の小屋があったので、そこに隠れた。割った竹で壁を作ったような小屋だった。
 だがその小屋が米軍の飛行機から爆撃され、砲弾の破片が母親の太ももをえぐった。母親は千四郎に授乳している最中だった。肉が捲れ、骨が見えて大量の血が流れていた。小屋の前で5~6人の日本兵が徘徊していたので、それを狙ったらしかった。飛んだ破片で千四郎の足の指が一本取れていた。壁に刺さった破片に千四郎の指がぶら下がっていた。
 國分雪月記者がニッケイ新聞2018年1月に10回連載した《半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住》(https://www.nikkeyshimbun.jp/?s=半沢友三郎)にその時の詳細が描かれている。
 講演を始める前、半沢さんは「こんな大勢の前で戦争の話をするのは今回が初めて」と言いながら、2時間余りも立ったままで話し続けた。その中からハイライトともいえる母親の死と、死んだ日本兵に関するやり取りを、半沢さんの語り口調そのままで紹介する。

「かあちゃんは運が悪かったけど、良かった」

 飛行機の砲弾の一発が小屋で破裂して、かあちゃんの足を突き抜けた。かあちゃんの足からは血がどんどん出てね。当時は薬といったら赤チンしかなかった。医者とかいないからどうしようもないよね。結局それで死んだ。
 あの時代にしては、かあちゃんは運が悪かったけど、そのなんというかね、良かったということはないけど、兵隊が落ちた砲弾の穴に入れて埋葬してくれた。その時代、普通は死んだらそのままだから。道ばたに死んだままの人が一杯いた。
 道ばたに死んでいる人を踏みつけて逃げていくのが当たり前。死体に向かって「おまえ死んでまで邪魔するな」って崖から蹴飛ばすような時代だった。
 うちのとうちゃんの弟がおったのよね。さっさと逃げようとみんなをせき立てた。メイアサッコ(半袋)ぐらいの籾とか荷物をもって、みんなで逃げていった。そしたら滝川があって木を一本渡しただけの怖い橋があった。それが、谷みたいなところにかかっていて、40メートルぐらいズッーと下が見えて怖いんだよね。チオ(おじさん)はタッタッタッと渡っていく。だけどボクは足が竦んでしまってふるえちゃって、どうしても進まないんよね。
 チオから「早く来い」と言われるんだけどどうしてもだめ。それにかあちゃんがいるところに帰りたかった。夜「かあちゃんのところに帰る。朝方までにここに帰ってくるから」といって戻って、怪我しているかあちゃんのところに戻ったら、もうチオのところに戻らんと思った。我慢しきれなかった。
 でもママイ(母)はそこで亡くなった。そのインディオ(先住民)の小屋はマット(森)のベイラ(縁)にあったから、そこに入って洞窟に移動した。自然にできた洞窟で、幅は3メートル位かな、奥もそのくらい。ヨら(ボクら)そこに逃げ込んだんだ。

10歳の少年に「人の肉は豚のようにうまいぞ」という日本兵

 2週間ぐらいいたかな。当時めずらしかったガラス瓶に、籾を入れて棒を突っ込んで脱穀して米を取り出して、夜に飯ごうで炊いた。昼間は飛行機が飛んでくるから、見つかると危ないから煙を出せない。谷川まで100メートルぐらい降りていって、水を汲んできて飯ごうで炊いた。一日に1回だけ食べた。それを繰り返していた。
 ある時、なんだか凄く外が気になった。何かいるのではと見に行っても何もないんだよね。そんなことを3回ぐらい繰り返したあと、突然、日本兵が2人ドドドッって入ってきた。
 「オマエら日本人か」「そうだ」というと「食べ物出せ!」って言われて、明日食べようと思っていた米をさし出したら、2人はばくばくと食べた。「米はあるんか」と聞くから「そこにある」と言うと、「じゃあ、ここに居る」と言うんだよね。
 兵隊の一人は下士官だったんだろうね、軍刀を持っとった。オウトロ(もう一人)は何も持っていなかった。もう一人は何の病気か知らないけど、足を包帯で縛っていた。その兵隊はやけどをしたらしい。やけどして水ぶくれになって手入れせんかったから、皮が破れたんだって。そこに金蠅が卵産んでウジが湧いた。ウジが肉に食い込んでいる。足の傷口を見たら骨が見えるんだよね。
 それで、その兵隊は「ウォー、ウォー」っていつも唸っていた。寝ないんだよね、ウジに食われて痛いんだろうね。
 もう一人の兵隊から「おまえそれをとれ」って言われた。ちょうど薬の袋持っとって、そこにピンセットが入っていた。そこでウジ虫をつかむんだけど、ウジ虫もグッと肉に食い込むんだよね。引っ張っても、そっくり取れないんだよね。むしれないんだ。それをヤルと、痛くて痛くて兵隊が騒ぐんだよね。
 その兵隊は変な便をしたんだよね。その兵隊は軍服を着ていたから、アメリカの兵隊が時々、森の中まで残兵を探しに来るのを用心していた。その兵隊は「おれはウンコするから、オマエは森に行って大きな葉っぱがついている草を取ってこい」というんだ。
 茎の途中から折って葉っぱを持ってくると、アメリカの兵隊に見つけられたら、「ここに誰かいる」と分かるから、根っこから抜いて落ち葉をかぶせておくんだ。
 それでその兵隊がウンコすると「これを捨ててこい」というんだ。しょうがないから、アメリカの兵隊がこないような暗い時間に外に出ていって、マット(森)の中の落ち葉が積もっているところに行って、すこし掘ってそれを捨てて、上に乾燥した落ち葉をかけるんだ。それを何日も繰り返した。同じ場所だと足で草を踏んだ場所に通り道ができてマズいから、あっちこっちに捨てた。
 何日ぐらいたったかな、そのうち怪我していた兵隊が死んじゃったんだよね。生き残ったもう一人の兵隊から「そいつ捨てるから、そっち持て」って言われて手の方をもって洞窟の外に出した。そしたらその日本兵から「こいつの肉を食ってみよう。人の肉ってのは豚の肉のようにおいしいぞ」と言われ、「えええっ」と思った。
 「もしも、オセ(オマエ)も食べろって言われてイヤだって断ったとき、『食べなかったら殺すぞ』って言われたらどうしよう」と思って心配した。
 それで、その兵隊が死んだ日本兵の腹にギューってナイフを突き立てて裂いたのよ。そしたら、その人は変な病気を持っていたんだね。中から血が出るんでなく、黄色っぽい変なのが出たんだ。それを見て、その兵隊も考えちゃって「チェ、あ~あ」とかいって「こんなもん捨てちまえ」と言われ、こっちは「ああ、よかった」とホッとした。
 その時、こっちは本当どうしていいか分からんかったんよね。もしもそんとき食べとったら、今こんな風に人前でしゃべることはできなかっただろうね。人の肉食べたなんて言えんもんね(講演の書き起こしここまで)。

「氷山の一角」のような半沢さんの体験

「フィリピンの戦い」レイテ作戦中の米軍の歩兵(Ibiblio.org, Post-Work: User:W.wolny, Licence: Public Domain)

 当時の戦局を解説すれば、半沢さんが巻き込まれたのは太平洋戦争中、1945年3月10日から終戦まで行われた「ミンダナオ島の戦い」だ。日本軍対アメリカ軍及びフィリピン人ゲリラの間の戦いだった。
 日本軍はミンダナオ島に第30師団と第100師団、独立混成第54旅団などが駐留させていた。ルソン島を除けば、フィリピンの残存日本軍の中で最大の兵力だった。当時、半沢家のような日本人の民間人は少なくとも5千人はダバオに住んでいたと言われる。米軍上陸時に皆が森の方に逃げ、同じような体験をしたはずだ。
 米軍により南北からの挟撃を受けた日本軍第30師団主力は、6月2日に東部への転進を決断し、移動途中で多数の餓死者・病死者を出した。第30師団全体での損害は終戦までに戦死2500人、病死2100人、不明5600人に達し、生存者はわずか約3千人であった。半沢さんのいう「死んだ兵隊」は不明者のうちのたった一人に過ぎないのだろう。
 終戦までにミンダナオ島の日本軍拠点は全て連合軍の支配下となり、日本軍守備隊は壊滅的な打撃を受けた。山中に逃れた日本兵・日系民間人は食糧不足に苦しみ、ゲリラの手によって殺害されていった。終戦直後は反日感情が強かったので日本人である事を隠して現地で生活し、最近になって日本国籍を復活させている日系人もフィリピンには多い。だが、幸運なことに半沢さんは生きて日本に生還した。

講演の途中で崩れ落ちた半沢さん

 半沢さんは講演中、2時間余り過ぎたところで突然言葉が出なくなり、身体をユラユラさせたと同時に崩れ落ち、会場は騒然となった。半沢さんの家族の中にそれを事前に関知した青年がおり、倒れる直前に近寄って支えて頭などをぶつけることを回避した。
 半沢さんは会館事務所のソファーに運び込まれて横たえられたが意識はしっかりしていた。そのまま車で近くの病院の救急センターに運ばれ、検査を受けた。特に悪いところは見つからず、その晩、無事にアチバイアの自宅に帰ったという。
 半沢さんは90歳近い高齢にも関わらず、休憩を挟んだとはいえ、自らの意思で2時間も立って講演し、しかもその内容たるや壮絶な戦争体験だった。思い出すだけでも血圧が上がりそうな内容であり、ストレスから貧血を起こしたとしてもなんら不思議はない。
 聴衆の一人、本紙に「誰も書かなかった日伯音楽交流史」シリーズを寄稿中の坂尾英矩さん(92歳、横浜市出身)に感想を聞くと「当時の雰囲気が良く分かる話。子ども頃にあんな経験をしたら一生残るね」と共感していた。
 さらに坂尾さんは、「大戦末期にボクの家の近くが空襲を受けた際、B29が撃墜されて、そばの女子校の空き地に墜落した事があったのを思い出したよ。その場所に見に行ったら、憲兵が死んだ米兵を引っ張り出していた。米兵は僕らとあまり年が変わらないよう見えたし、家族の写真を胸ポケットに入れているのが見えたりして、どうして戦争なんか起るのかなと子ども心に疑問に思ったのを思い出したよ」としんみり述べた。
 半沢さんは23歳の時「全て忘れるつもりで日本を出た」という。フィリピンでの壮絶な経験を乗り越えるために、ブラジルに移住したともいえる。わずか10歳でそのような辛い経験をした少年にとって、まったくの新天地で人生をやり直そうと思うことは、その後の人生を前向きに生きる上でとても大事なことだったに違いない。
 思えば今この瞬間も、世界には戦争で苦しんでいる人がたくさんいる。ウクライナはもちろん、アフリカ大陸からブラジルに押し寄せている戦争難民にとっては現在進行形の話かもしれない。(深)

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