八代は短歌の他に小説にも関心をもっていて、自分たちが国を出る年(一九三二年)将来を嘱望されていた梶井基次郎の病没(肺結核)した話をもち出した。簡潔な文章には人の心をえぐるような悲しみがにじんでいる。筆致は、自分の感受性にたよったもので、幻想的感覚の詩人と呼ぶべきかもしれない。代表作の短篇『檸檬』と散文詩『桜の樹の下には』は先生の家にあるから興味があれば貸してあげよう。流行作家と言われた菊池寛などの作品は雑誌《キング》などにも掲載されていて、生徒の口に出ることはあったが、梶井の名前は誰も知らなかった。
野外の月光が倉庫の入口を照らしていた。収穫後の月は冷たく澄んでいた。
「いい月夜だな。『金色夜叉』のロマンスを思い出さないかい」
と、八代が言うと、一同の顔が明るくなった。
「その話、聞きたいな」
芝居に興味をもっている浜野が言った。彼は物語を心に畳み込みたかったようだ。
隆夫の求愛
親父の話を聞きあきている隆夫は、(古くてつまらない話は辞めるべきだ)と、呟き、そっと屋外へでた。それを見た律子は、思わず自分も席をはずしていた。
かなり昇った月は、淡く、冷たい光を広野に注いでいた。コーヒーの樹海は灰色の短い蔭を地上に投げかけていた。しばらく雨がないので地熱がやんわりと身体に這いのぼってくるような心地のする夜だった。
背後に感じた人の気配を、律子のものと知って、隆夫は振りかえり、
「君だったのか、ちょっと歩こう」
と言って、先に進んだ。
律子は黙って従った。隆夫に伝えたいことが胸につかえていたが、その実、何も言えなかった。
「俺たち、もっと大人になるべきだと思う」
「それ、どういう意味ですの」
「男女がもっと自由に交際したり、お互いの愛をたしかめ合うとか」
「毎日が野良仕事で、なかなか余暇のもてない百姓だものね」
「おい、しっかりしろよ。それがどうしたのか」