小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=55

 隆夫は立ち止った。突然、律子の肩へ双手を廻した。力強く抱き寄せると、眼前に律子の蒼白い顔があった。その唇へ強引に自分の唇を重ねた。思いがけぬ、素早い隆夫の行動だった。一瞬、何が起ったのか判からなかった。律子の初めて経験することだった。異物を口唇に押しつけられた感じで、思わず、相手を押し退けようとした。胸の動悸が高まり、全身がわなないた。
「いやっ、藪から棒に、何するのよ」
「俺は、律っちゃんが好きなんだ」
 隆夫にそう言われても、農作業に明け暮れるだけの律子には、若い男女の交際がどんなものであるのか、まったく想像外で、突然、抱擁されて、ひどく戸惑うのだった。
 隆夫は、執拗に律子を抱きしめようとするが、彼女は頑なに拒んだ。
「お願い、やめて。貴方のこと、信じられなくなるわ。私、帰ります」
 その夜、律子は容易に寝つかれなかった。どうして隆夫は、急にあのような行動にでたのか。あれが男らしさと言うものなのだろうか。それとも、自分が彼に近づいて行ったのを、軽はずみな女と見られたためだろうか。私はあの人を見そこなっていたのかもしれない。もう近づくまい。そう自分に言い聞かせると、涙に咽るのだった。
 青年部の夜学は続けられていた。律子も弟の浩二をつれて勉強していた。教室が同じでも、あのことがあって以来、自分から隆夫の近くに席をとることはしなかった。しかし、夜学には出かけたし、その度に隆夫と会った。
 ある日、隆夫が言った。
「俺はな、あの家を出ようと思ってるんだ」
「あら、どうして」
「実を言うと、俺は哲二の甥っ子なんだ。最初、彼は大家族だから仲よくやろう、金ができたらそれぞれ仕分けして家族を持たせてやろう、と言っていた。が、最近は金ができたら、自分が一度日本に行ってくると言い出したんだ。そと面ばかり良くて、家では威張りくさりやがって、実の子供たちも辟易してるんだ。俺はこの親父の天狗鼻をへし折ってやろうと思って、親父が大事にして誰にも食べさせない庭のみかんを、友人が来たのを幸いにたらふく食べさせ、ついでに自分たちも食べてやった。ブラジルで言うデザフィーオ(挑発)だ。母親はちょっと嫌な顔をした。が、もともと母も夫ぎらいなので文句は言わなかったよ」
「そんなこといけないわ、隆夫さん」
 と律子は言った。

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