「祖父が亡くなった時は涙一つ流さなかった父は、ブラジルで兄が亡くなった時には大泣きした。でも私にはブラジルの親戚の話は一切しなかった。だから私はほとんど知らず、今回初めて交流に来ました」――ブラジルの親族交流と現地教育状況の視察のためにブラジル訪問していたNPO法人「開発教育Funclub」代表の肥田進さん(68歳、静岡市在住)が、ボツカツ市在住の当地の親戚である肥田文子(あやこ)さんに連れられて22日に編集部を訪れ、進さんはそのように話を切り出した。
肥田一族は静岡県賀茂郡南伊豆町下流(したる)出身で、「わずか40戸ほどの小さな集落です」とのこと。だが、父の叔父・肥田善衛(ぜんえい)さんはそこから東京外語大スペイン語学科に進学卒業した翌年、1924年に移民監督助手としてブラジル移住した。インテリ移民として有名な「外語大仲間の安藤全八と仲良しだったと聞いています」。
善衛さん最初サンパウロ州南部海岸地帯のレジストロに入植したが、3カ月で州西部アルバレス・マッシャードに移り、そこで当時の日本人としては珍しい薬局経営をした。善衛さんの両親と妹夫婦とその長男4歳も1929年にブラジル移住して、数年後帰国した。
善衛さんの末息子ミルトンさんは、1969年からボツカツ市のサンパウロ州立大学(UNESP)医学部で日系人初の眼科教授、1977年からは慶応義塾大学医学部・国際医学研究会(IMA)の医学部生よるブラジル訪問の調整官としても活動している。ミルトンさんの妻が文子(あやこ)さんだ。
今回プレジデンテ・プルデンテとサンパウロ市で初めて肥田家のうブラジル側親戚ら計30人と交流した。「今回初めて見る写真もあった。今交流しないと途絶えてしまうと思った。会えて良かった」と胸を撫で下ろす。
「オヤジは善治さん(ぜんじ、父の兄)がブラジルで亡くなった時に大泣きしていたのを、今でも覚えています。今回その親戚にも会え、善治さんの名前の付いた通りがあることも初めて知りました」としみじみ語った。
進さんの父の兄肥田善治さんは1933年に16歳でらぷらた丸でブラジル移住し、48年にプレジデンテ・プルデンテ周辺にあるミランテ・ド・パラナパネマに転住して薬局を開業し、地元から愛されたという。善治さんは善衛さんからすれば甥にあたる。54年には汎ミランテ野球連合青年会初代会長に就任し、そのまま10年間も務め上げた。
その後、ミランテ日本人会会長に選任され、同地ロータリークラブ会長も歴任した。73年にはペドロ・アルバレス・カブラル章、74年にはマレシャル・カンジド・マリヤノシルバ章などの勲章を授与された。75年に享年57歳の若さで亡くなった。
これらの業績から、街中には「Rua Comendador Zenji Hida(叙勲者肥田善治街)」があり、その街路脇には野球場などのスポーツ施設「肥田善治競技場」、現地のミランテ・ド・パラナパネマ日伯文化協会の会館もある。まさに現地日系社会の中心的な場所だ。
競技場敷地内には名前の由来が書かれた立派な日本語の記念碑が立っており、そこには《故肥田善治氏は当ミランテ地域の開拓途上にあり、南米日伯コロニア間に於ける総和共存に対処し、最善を尽くされ、以て市井の発展に寄与されしこと亦多きなり》などと書かれ、青少年にスポーツを広めることで志操鍛錬とコロニア大衆への慰安の場を作ったと顕彰している。
善治さんがミランテに来た頃は、まさに終戦直後の勝ち負け抗争が最も激しかった時期であり、青少年へのスポーツ振興を通して分裂した日系社会の融和に努力した様子が行間から伺われる。
「善治さんの遺骨はすでに別の場所に移されているのですが、町に残されたお墓には今でも花が供えられ、ロウソクが点されていると聞き、本当にうれしく思いました。現地にきたおかげで、初めていろいろなことを知りました。本当に来てよかったです」という。
進さんは9月15日から24日まで滞在し、その間、ボツカツ市の公立学校を見学して帰国した。