赤嶺園子『ブラジルへの移住』=沖縄戦から始まる壮絶な家族史

著書を持つ赤嶺さん

 先ごろ出版された家族史『ブラジルへの移住』(赤嶺園子著)は壮絶な体験談から始まる。日本で唯一地上戦を経験した沖縄で、米軍が最初に上陸して戦闘を開始したのが西原町で、住民の約半分が戦死した。そこで赤嶺さんは1940年12月に生まれた。
 沖縄戦の最中、赤嶺さんは4歳半だったが、隠れていた避難所に爆撃を受けて瀕死の重傷を負い、野戦病院のテントに運ばれた。《父親に「私はもう死ぬのですか」と尋ねると、父は「自分の命に代えても大事な娘を死なせはせぬ」との言葉~》(7頁)と鮮明に記憶に残る出来事が描写されている。
 住民の約半分が戦死するという状況を、以下の情景描写が生々しく描いている。《爆風で頭が飛び身体だけがしばらく歩いて倒れる人、顔に傷を負い頬っぺから顎にかけてもぎ取られた人、生き埋めになった姉妹を助けられなかった人、悲鳴や阿鼻叫喚、防空壕の中で幼児に泣かれ乳を与えて窒息死させなければならなかった母親、この世の地獄が展開されました。ああなんと無情で残酷な惨状でしょう。目にしたくなく、聞きたくもない現実です。我が家でも5人が犠牲になりました》
 赤嶺さんは取材に対し「自宅に爆弾を落とされて家が焼けるときに火傷を負いました。今でもあの時の傷跡が全身に残っていて時々疼きます」と付け加えた。
 赤嶺さんの人生はそこから始まり、1950年代にブラジルで成功した沖縄県人が赤嶺家を来訪し、移住生活の詳細を語ってくれた。それを聞き、戦前に移住した叔父を頼って移住することを決意した赤嶺さんは根気よく両親を説得したが、商売が好調だったために聞いてくれなかった。業を煮やした赤嶺さんが夕餉の団欒時に、「一人でブラジルに行く」と宣言した。家族の団結を重視する両親は、最終的に一家を上げてブラジル移住をすることを決断した。
 赤嶺さんにとって戦争がない場所で生活することは何よりも大事なことだった。「島は動かせないが、人は移住できる」と考え、たとえ一人でも行くと決断したことで、家族が動いた。
 「母はブラジルに来た当初、いつも沖縄に帰りたいとこぼしていたが、最後は『ブラジルの方が良い』と言って他界していった。両親は沖縄ではお店を順調に経営していた。でも父はブラジルに来てからは試練続きで、それを思うと申し訳ないことをしたという気持ちが強い。私がブラジルに行くと言わなければ…と。だからいつも私はゴメンなさいと謝っていました」と振り返る。
 赤嶺さんは「ポ語を覚えたかったから」と当地でタウバテ法科大学を卒業、後に琉球大学大学院修士課程も終えた。「両親は日本の心を私に教育してくれた。自分史と言うよりは、そんな両親、家族のことを書き留めておかなければと思って綴りました。『子孫はブラジルで成功しているのでご安心ください』との報告の気持ちを込めて」と説明した。関心のある人はソールナッセンテ社(電話11・3208・2944、sono.a.m@hotmail.co.jp)まで連絡を。

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