《特別寄稿》日本の敗戦と「勝ち負け」抗争《上》=警察とメディアが生んだ歪んだ虚像=保久原 淳次 ジョルジ 翻訳者:宮原朋代

(※ブラジル沖縄県人移民研究塾同人誌『群星』2023年8月号より、許可を得て本文と写真を転載)

保久原 淳次 ジョルジ

 「忘却」―つまり心からさっぱりと取り消す―意図的ではないかもしれないが、実にやるせない事実に対し、忘れてしまおうという選定が優先された。理解できる選択である。それは第2次世界大戦終了後に殺人事件まで起こしたといわれる、ブラジル在住の日本人によって結成された愛国組織、「臣道連盟」の事である。
 警察当局によると、当組織は移民の約80%の支持を受けていたという。未だに研究者の課題として取り上げられているにもかかわらず、益々知られざる課題である。ゆえに、それについて議論することは挑発的、あるいは大胆な事だというよりも機を逸した、無意味なようにも思えるからだ。
 厄介にすぎない。自分たちの親、あるいは祖父母や曾祖父母にしか知らない、私たちの生活に全く無関係な昔の話をなぜ今さら掘り起こすのかという事になりかねない。
 一部の研究者が記禄している通り、おおかた模範的な人生の軌跡の中で起きた「拭われぬ恥」を意味するエピゾードであったからこそ、ブラジルの日系人はこの出来事に「白い沈黙」というベールを被せ、今でも尚歴史のその一頁の大部分が覆われていることを受け入れ、そのまま許し続ける立場が道理だとされている。
 しかしながら日本移民がブラジルの歴史に刻んだ数多くの目覚ましい成果があったにもかかわらず、その中でこの出来事が最も印象的であったのは疑いの余地がない。それらの一連の出来事をできる限り正確に把握することにより、多次元性の様々な側面を理解し、当時―あるいは別の時代―に与えたインパクトに共感できるだろう。さらにブラジルにおける日本人移民の歴史がどのように築き上げられてきたかを知る為にも重要な課題である。
 新天地を求めて地球の反対側からはるばると来た幾千人の人々にとって「恥」と化した「臣民の道連盟」、いわゆる「臣道連盟」の物語は今やたとえ事実や文書に基づいているにしても、信じがたい逸話のように聞こえるかもしれない。
 1945年8月15日正午、天皇詔勅・玉音放送を通じて日本の無条件降伏が宣言された。そして同年9月2日に帝国日本政府(重光葵全権代表)は米戦艦ミズリー号の船上における無条件降伏調印式において署名し、ここに太平洋戦争は終結した。
 ところがその直後、ブラジルでは日本が勝ったという偽りのニュースが日本人移民の間に吹き込まれた。血みどろの沖縄戦の最悪の結果、日本軍の抵抗勢力の破滅、日本国内での二つの原子爆弾の爆発、天皇制政府の降伏などの現実現況を認識していた人々が、偽造ニュースが飛び交う事態を防ごうと組織化し始めた頃にはすでに嘘の情報は広まり、日本人とその子孫のほとんどを納得させていた。嘘をばらまいた臣道連盟の役割は重大であった。
 ブラジルの日系社会は「日本は戦争に勝ったのだ」という説を信じるいわゆる「勝ち組」、そして敗戦を認知していた「認識派」の両派に分裂してしまい、前者は後者を軽蔑的な言い方で「負け組」と呼んでいた。人々はたとえ同じ血を引く親族であっても、反対派だと判ると口もきかなくなってしまった。互いに敵対するグループが結成されてしまい、ついに1946年3月に日本人が日本人を殺害する事件が起きてしまった。日本人に対し、同じ日本人がテロ行為を働きかけたのだ。そしてサンパウロ州の奥地では日本人とブラジル人の間で路上衝突が発生した。
 千人以上の日本人移民が警察に拘束され、犯罪の捜査を担当する警察当局に尋問された。拘束された人々の一部はそのまま逮捕された。近年では拷問を受けた者もいることが証明されている。そのうち数百名が起訴され、数十名が大統領令によりブラジル国から追放を命じられ、他の者は投獄されてしまった。
 裁判沙汰になったこの事件の調査記録はブラジルで最大の訴訟事件となりうる規模をもたらした。殺人犯の加害者は判明された地域の管轄区域の裁判所で裁かれ、有罪判決を受けた。しかし、国外追放の罰則は適用されず、他の被告人たちは判決が出されず時効により裁かれることはなかった。
 この出来事の記録はまだまだ事実に基づいて完結されねばならない。信じがたい話だという事だけでなく、根本的な状況にまだまだ欠落、あるいは矛盾した解釈があるからなのだ。数年前に警察の記録帳を基にした書物が大ヒットした。その本を基に映画を作り上げた監督もいた。
 タイトルはそのままであったが、書物の内容とは別の見解で本題を取り上げた当の映画監督は「書物は警察の記録を基にしているからだ」と弁明した。実際の出来事は、そう(本に書かれている通り)でなかったかもしれない、と彼は疑っていたのだ。彼の言う通りなのかも知れない。
 警察の見解の定着に重大な務めを果たしたのが当時のマスコミであった。このような警察の行動に対して特に新聞がでかでかと、そして華々しく支持した事は注目に値する。明らかに偏向した報道は警察当局の発表を無批判に再現したり、あるいは自分たちの思いのままに増幅したりしてブラジルにおける日本人とその子孫に対する奇妙なイメージ(「奇妙」とはおそらく最小限にアグレッシブな形容詞であるかも知れない)を作り上げ、その定着に決定的な役割を果たしたのである。それは単に「拭われぬ恥」という感情を作り上げるだけでなく、何よりもその気持ちを一人ひとりの心の中に深く浸透させることにあった。
 その心持はおそらく当時の生存者の多くの間で最も共通する感情であろう。長い歳月が経った今、このような歴史的辛さに真っ向から明かりを照らし、あるいは1940年代後半に起こったことの真の意味を理解した上で、ブラジルの日系社会が未だに抱えているであろう罪悪感や後悔、悔やみや恥のような感情からようやく解放される時宜を得たのかもしれない。

米戦艦ミズリー号の船上における無条件降伏調印式

独裁政権、戦争、情報操作

 戦前の1941年8月13日、417人の日本人移民がブエノスアイレス丸からサントス港に下船した時、ブラジルにはすでに19万人以上の移民が住んでおり、その子孫を数えると30万人を超え、ほとんどがサンパウロ州に住んでいたと言われている。
 1937年9月10日以来、ブラジルはジェツリオ・ヴァルガス率いる鉄の独裁政権下に置かれ、1945年の終戦直後まで続いたこの時代は「エスタード・ノーヴォ(新国家)」と呼ばれた。在留邦人が急増した1920年代以降、特にブラジルの政治・経済界のエリートたちの間では反日感情が膨らむ一方だったが、それまではずっと控えめに表明されていた。
 ヴァルガス独裁政権下の「エスタード・ノーヴォ」は行政権の長が立法権の承認を必要とせず一方的に政令を公布し、市民への支配力を決定的に高める法的手段を自由に用い、さらにその適用と有効性を法的に争えなくした。その結果、特定の国籍を持つ外国人の自由を組織的に制限することが法的に支持されるようになったのである。
 第2次世界大戦が勃発し、1942年1月28日にブラジルが正式に連合軍に加盟したことで「エスタード・ノーヴォ」独裁政権は超国家主義的対策、いわゆる枢軸国の臣民であるドイツ、イタリア、日本人移民の行動を統制することに集中した。
 サンパウロ州の警察当局は特に日本人に対して弾圧的な措置をとった。例えば母国語で書かれた出版物の配布、公共の場での日本語の使用、母国の記念日を祝うための集会等はすべて禁じられ、サルヴォ・コンヅットという許可書なしで他の地への移動や警察に届け出なしの転住、無許可の飛行なども日本人には禁じられた行為の一部であった。
 ブラジルでどんな苦労してでも財産を築き、故郷で錦を飾ることを夢見ていた多くの日本人移民にとって、「わが子に日本語を教えてはいけない」というのが最も心の痛む措置であった。また、国や世界情勢の把握、ビジネスの発展、同胞との連携、さらには世界観を作り上げる事にも役立つ手段、あるいは働きづくめの移民にとって稀にない暇な時の読書であった日本語の出版物の禁止、そして関連する出版社の全面閉鎖は移民社会にとってこれらの全てを一気になくしてしまうことに繋がった。 
 画家であり、研究者でもある半田知雄氏は、ブラジルにおける日本人の存在を理解するうえで欠かせない作品、『移民の生活の歴史―ブラジル日系人の歩んだ道』の中で、「まるで民族の精神的自殺を願っているかのようだ」と述べている。
 日本人移民はラジオ受信機なども没収された。そのような器具は国の敵性国民が所持する事はいたって危険だと考えられていたからであった。しかし、中にはラジオを隠すことに成功し、あらかじめ決めた時間帯に、信頼できる友人と共に電源を入れて聴くようにした者もいた。「大本営発表」を聴いていた在ブラジル日本人移民は太平洋戦争についてそのようにして情報を得るのだった。大まか自画自賛的、狂信的愛国主義的なバージョンに没頭してしまったのだ。
 第2次大戦前にブラジルに渡った移民の学校教育は、明治時代(1868~1912)に制定されたものであり、この時代の日本は一部の大財閥に対する国の財政支援と国民の軍国教育訓練のおかげで、経済・軍事大国としての地位を固めていったのである。
 この形成の重要な要素のひとつが、19世紀最後の10年間に発行された比較的短い文書で、多くの世代の愛国心を育み、それを強化するために不可欠なものとなった教育勅語である。この文章は、日本人の精神の原理と最高の美徳についてまとめたものであった。
 戦前にブラジルに設置された日本語学校では、この文書が祭壇に置かれ、儀式的に読まれたと、研究者の前山隆氏は『O antepassado, o imperador e o imigrante: religião e identificação de grupos dos japoneses no Brasil rural (1908-1950)(直訳:「先祖と天皇、そして移民:ブラジル農村地域における日本人の宗教と集団アイデンティティー意識」)』で振り返っている。また、天皇の肖像画(御真影)も飾られていた。1930年代後半には、3万人の日系人がこれらの学校で学んでいたと推定される。
 日本帝国の不滅性と神元による長寿の概念、1894年の日清戦争と1905年の日ロ戦争における日本の勝利、1914年から1918年の第一次世界大戦における日本の役割や1930年代のアジアの領土征服における日本軍の進軍は、ブラジルに移住した多くの人々の愛国心を強めた。
 日本語の定期刊行物の発行、流通が禁止されてしまった為に正しい情報が得られず、太平洋戦争の進展に関する情報は誤ったまま広まってしまった。大多数の移民にとって日本の勝利は確固たるものだった。しかし、後に直面しなければならない全く異なった現実が容赦なくその多くの人たちに襲い掛かってくるのであった。そして、それを理解するまでにはいろんな出来事が起こるのであった。(続く)

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