《特別寄稿》日本の敗戦と「勝ち負け」抗争 《下》=裁判で国外追放や禁固刑はゼロ=保久原 淳次 ジョルジ 翻訳者:宮原朋代

「勝ち組」によるミズーリ艦上の偽造写真

(※ブラジル沖縄県人移民研究塾同人誌『群星』2023年8月号より、許可を得て本文と写真を転載)

迷信、詐欺、犯罪 

 このように情報不足の環境の中で様々な迷信が普及され、その上日本の勝利は確かだという誤った情報を広めようと、超国家主義的組織が形成され始め、中には軍事的特徴を持った組織まで現れ始めた。更に、新たに拡大した帝国の強化に継ぎ、日本の統治下となった新天地を植民地化するために本国に戻って協力しようという話まで飛び交った。
 一部の移民の行動や言動はブラジル人側から益々反発を呼ぶようになっていた。一部の新聞はブラジルの公益に反する行為をとったとみなされる日本人移民に対し、戦争犯罪者として死刑判決が下されるべきだと報じていた。帝国陸軍中佐まで上り詰めた旧日本軍人の吉川順治が日本人農民に対し妨害行為を行ったとして、治安維持のため1944年9月から45年11月まで投獄された。
 1945年6月―沖縄での悲劇的な敗戦(24万1686人の死者の中、14万9千611人が沖縄の民間人、「平和の礎」、2022年現在)の後、8月には広島と長崎で原子爆弾の投下、次いで8月15日の天皇詔勅(玉音放送)による日本の降伏宣言、そして米戦艦ミズリー号艦船上における帝国日本政府(全権代表重光葵)の敗戦条約への署名等のニュースはポルトガル語の新聞で発表され、ポ語の読める者はともかく、正しい情報を得たブラジル人はそれを喜んだ。
 しかし日本人移民の中にはポルトガル語で書かれた現地の新聞を読める人はまれで、そのニュースはほとんどの人に届かなかった。
 1942年に日本との国交を断絶し、1945年6月6日に宣戦布告したブラジルに天皇陛下から臣民向けの日本の降伏を告げる公文書が届いたが、第三国の外交官を巻き込んだ英語版であった。日本語版が届くにはかなりの時間がかかり、さらに遠回しに書かれた文章は敗北や降伏を明確に表現しておらず、ある一節では天皇が臣下の苦しみを認識し、「耐え難きを耐えよ」と伝えていた。怪しげな解釈の余地があった文章だけに多くの移民はそれを嘘だと考えた。
 これらの移民たちにとっては、日本は戦争に負けたわけではなかったのだ。それどころか、日本はきっと勝利し、東アジアをはじめとする全世界にその力を示す準備に取り掛かっているのだと信じ切っていた。それはまさに、研究者の斉藤広志氏と前山隆氏が表現したように、「delusão coletiva(集団妄想)」であった。ポルトガル語のHouaiss辞書によるとdelusãoとは、「欺く行為やごまかし、策略」という意味であり、心理学では「深刻な感覚障害」、精神病理学では「理性や現実との対峙を嫌う慢性的な譫妄」を意味する。
 人々は実に底知れぬ自己欺瞞に満ち、飛躍的に増幅された慢性的な錯乱状態に陥っていた。ある説によるとそのような偽りはパラグァスー・パウリスタ市で結成された「赤誠団」を基に、1944年2月に「興道社」が成立され、そこから生み出されていたと言われる。
 その組織には吉川順治元陸軍中佐、陸軍士官学校の同期だった山之内清雄元大尉などが加わっていた。彼らは故郷を離れた日本人移民が「臣民の道」という概念を失いつつあるという事を懸念していた。これが「臣道連盟」の胎動である。
 警察での事情聴取で鉱山技師の根来良太郎(吉川元中佐と沖縄県出身の渡真利成一と共に組織を作り上げた3人のうちの1人とされる)によると「臣道連盟」は1945年7月22日、マリリア市で設立されたと述べていた。警察から秘密組織とされた数多くの団体の一つに過ぎなかったかもしれない。
 だが、直ちに、そして疑いの余地なく最も重要なものとなってしまった。日本人移民が多かった特にサンパウロ州の各地に広がり、別に点在していた組織を全て吸収していった。「臣道連盟」には12万人もの会員がいると渡真利は警察に供述していた。警察側は日本移民の8割がこの組織を支持しているだろうと推定した。
 組織結成時に掲げられた理念には、「ブラジル在住の日本人は皇室の臣民としての誇りを忘れず、大和魂を育むべきである」とあった。そのためには「勤勉、忍耐、勇気をもって祖国に奉仕する」といった、祖先から受け継いだ美徳を守る必要性が挙げられていた。
 認識派と呼ばれる側で日本の戦争勝利とかのデマを阻止するための運動を開始したが、すでに遅かったか、挫折しつつあった。サンパウロでは連邦政府の臨時行政官がカンポス・エリーゼオスの官邸で事実を明らかにして日本人の心を落ち着かせようと会合まで開かれた。
 双方の移民たちが参加したが結局失敗に終わってしまった。暴力はますます広がる傾向にあった。
 「貴方は大日本帝国の天皇陛下の悪口を言外す」と、ある『認識派』宛の手紙に書かれていた。「依って我等日本人の手で君等国賊に膺懲の銃剣を振るから君等も日本人ならその罪を悔い日本人らしく自決するが肝要だろう」と脅し、「自決し得ぬ時は参上するから『首を洗って』ゐろ」と(『首を洗え』とは封建制度時代に日本で斬首刑を意味する言葉)。この短信はブラジル日本人移民についての理解と知識を深めるに欠かせない一冊「Uma epopeia moderna」にて引用されている。
 1946年3月7日の夜、バストス農業協同組合の専務理事であった溝部幾太氏が至近距離から背中を撃たれ自宅の裏で殺害された。犯人は過激派に属し、バストスの「臣道連盟」の指導者たちと連絡したことがあったと主張した山本悟であった。
 1946年4月1日未明、サンパウロ市のジャバクァーラ地区在住の野村忠三郎が自宅で暗殺。6月2日にはサウーデ地区の脇山甚作元陸軍大佐が殺された。脇山は陸軍士官学校で吉川と同期だった。
 終戦の結果についての対立に関連した日本人同士の殺人事件が最も多く発生したのが1946年の7月だった。一連の事件はブラジル人社会にも大きく反響した。連日新聞の見出しに現れた結果、ブラジル人が「臣道を殺せ」「日本人を絶滅させろ」と狂気になって街頭で叫び、日本人が経営する商店や日本人の家にナイフや斧、他にも武器になるものを持って襲いかかった。リンチの危機にさらされた日本人は警察に救出された。
 このエピソードに関する最後の殺人事件は翌年、1947年1月6日にサンパウロのアクリマソン地区で起こった。的はスェーデン領事館の日本担当責任者の森田義一氏だったが、犯人は誤って森田の義兄弟であった鈴木正治を殺害してしまったのである。総括すると9カ月間で23人の日本人が死亡、86人がテロ行為で負傷した。その大半が「認識派」、いわゆる「負け組」の人々だった。
 世界中が民族間の平和と調和を目指し、それを如何にして維持していこうと計らい始めていた最中に、日本人移民とその家族を巻き込んだ暴力と混乱、これらの数字はそのおぞましさを明快に示している。間違いなく、「払われぬ恥」を意味するエピソードだ。
 1946年4月に野村忠三郎の殺人事件並びにアクリマソン地区の古谷重綱の未遂事件を解明するために調査が開かれた。捜査のリストにはほかの事件もどんどん加わっていった。調査を総括した政治警察(DOPS)のジェラルド・カルドーゾ・デ・メロ署長は3カ月間必死になって取り調べに没頭した。被告人、あるいは証人を含め、一千人以上の聴取を行い、直接調査などに携わったり、指図したりした。
 訴訟書類には「臣道連盟」の本源と目的、行動の過程や組織の責任に当たる行為などを警察の視点からまとめ、さらにブラジル日本人移民の性格や考え方、立ち居振る舞いなどが記されていた。無署名の書類はカルドーゾ・デ・メロ署長により記録されたものと推定されるが、日本人移民についてほとんど無知であっただろうと思われる人物が「O Niponismo no Após Guerra -(訳注:戦後の日本主義)」と題する文章をあれほど極めて短い期間内に書き上げる事が出来たのが理解に苦しむところである。
 要約すると、警察はほとんどの犯罪、特に死者が出た犯罪を「臣道連盟」の責任だと決定したのだ。

「勝ち組」が「負け組」に突き付けた「警告書」。「速やかにしかるべく自決せよ。」とある

 カルドーゾ・デ・メロ警察署長は1946年、6月26日にようやく「臣道連盟」事件調査終了を宣言し、政治・社会秩序に関する犯罪とみなされた故、エスタード・ノーヴォ独裁政権時代から行われていたように訴訟記録を内務・法務省に送るよう命令を出した。そして大統領政令により80名を国外追放、ブラジル生まれの子供がいた390名を起訴し、国内での刑務所入りを申し出た。
 しかし、警察捜査が終了した後、「臣道連盟」の行為とみなされる犯罪が少なくても半年間に渡り、相次いで発生した。
 上記の調査はそれまでのブラジルの司法史上最大の訴訟を引き起こした。だが、裁判の開始が司法権に関する官僚的問題で大幅に遅れ、1946年6月、ようやくサンパウロ第一刑事裁判所で正式に手続きが行われる事が決まった。検察庁が被告人を起訴したのが警察調査終了後の約4年もたった1950年4月の事だった。
 犯罪が発生して訴訟に至るまでには、例えば政治的には新体制の確立、法律面ではエスタード・ノーヴォ独裁政権の例外規定が廃止された法律の制定などがあり、情勢にかなりの変化があった。被告人や証人の事情聴取を行わなければならなかったが多くの人が住所変更、中にはすでに他界した者もいた。手紙などで召喚することも可能ではあったが、さらに時間がかかるのは確かだった。すべてが遅延を駆り立てた。
 そのうちに被告人や証人、全員が正式に審問される前に、被告人のうちの一人の弁護人、エルクラーノ・ピレスが1958年に事件の決定的な解決論を申し立てた。すなわち、「犯罪の時効と刑罰の消滅の期限は、被告人に課され得る最高の刑罰の期限を超えることはできない」と論拠を示した。検察官とダゴベルト・サレス・クーニャ・カマルゴ判事がその主張を受け入れ、被告人全員の刑罰が破棄された。捜査が始まって以来すでに12年という長い歳月が経過していた。
 殺人事件が起こった地域の司法権による裁判で身柄の確保に処された者を除き、「臣道連盟」に関与したとして国外追放や禁固刑に処された日本人は一人もいない。
 過去20年間に行われた「臣道連盟」に関与したとされる暗殺事件で有罪を宣告された者の事情聴取によると、少なくてもその一部が「臣道連盟」組織そのものとは無関係だという事が判明した。古谷重綱未遂事件や脇山甚作殺人事件に関与した北村新平は、命令者が組織に属していたかどうかはわからないと供述している。
 同じく襲撃に参加した日高徳一は組織に加入したことがなく、被告人170人が送られたアンシェッタ島で初めて吉川順治元陸軍中佐に会ったという。
 しかし、「臣道連盟」というのが犯罪行為を犯したテロ組織だという警察側の見解が強調され、今でも根強く残っている。
 囚人の中には拷問を受けた者もいた。1946年以降ブラジル政府関係者による人権侵害を調査した『国家真相究明委員会』はそれから何年もたった2013年に、第2次世界大戦終了後に迫害された日本人移民に対し謝罪の意を表明した。(終わり)

【主な参考文献】
ブラジル日本文化福祉協会「Uma Epopeia Moderna」 
半田智雄 サンパウロ人文研究所「O Imigrante Japonês: História de Sua Vida no Brasil」
ポルトガル語辞書「Dicionário Houaiss de Língua Portuguesa」
三田千代子「Bastos: Uma Comunidade Étnica no Brasil」 USP大学
本山ショウゾウ・保久原ジョルジ「Do conflito à Integração – Uma História da Imigração Japonesa no Brasil – Volume II」
斎藤ひろし・前山隆「Assimilação e Integração dos Japoneses no Brasil」
HANDA, T.– O Imigrante Japonês: História de Sua Vida no Brasil. São Paulo, 1987, T. A. Queiroz-Centro de Estudos Nipo-Brasileiros.
Instituto Antônio Houaiss – Dicionário Houaiss de Língua Portuguesa. Rio de Janeiro, 2004, Objetiva.
MITA, C. – Bastos: Uma Comunidade Étnica no Brasil. São Paulo, 1999, Humanitas/FFLCH-USP.
MOTOYAMA, S.; OKUBARO, J. – Do conflito à Integração – Uma História da Imigração Japonesa no Brasil – Volume II (1941~2008). São Paulo, 2016, Paulo’s.
SAITO, H; MAEYAMA, T. – Assimilação e Integração dos Japoneses no Brasil. Petrópolis e São Paulo, 1973, Vozes e Edusp.

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