なぜか顧みられない奴隷解放宣言アウレア法
あまり注目されなかったが今年5月13日は、奴隷制廃止宣言アウレア法制定135周年だった。アフリカ系コミュニティにとっては意味のある記念日に思えるが、なぜかあまり祝われない。
アウレア法は1888年5月13日に、ドン・ペドロ2世の娘ドナ・イザベル王女によって裁可された。この法律は、当時ブラジルに存在した約70万人強の奴隷に完全な自由を与え、奴隷制を廃止するものだった。
この法律は、歴史上まれに見る実にシンプルな条文しかない。次の2条だけだ。
「摂政王女は、皇帝陛下の名において、帝国の全臣民に対し、議会が以下の法律を布告し認可したことを通知する。
第1条: この法律の制定日以降、ブラジルにおける奴隷制度は廃止されたと宣言する。
第2条: これに反する規定は無効となる」
つまり奴隷側にとって、解放後に何ら職業訓練などの社会適応や支援政策を伴う法律ではなかった。ただ単に「解放した」だけだった。解放された本人とっては、農場で低賃金労働をするか、大都市に出てスラム街を形成して不安定な生活をするかのどちらかだった。
この法律は奴隷の所有者であった大農場主にも何ら補償金を支払わずに奴隷を解放するものだった。そのため、地主や大農場主ら保守派からの王室に対する反発を強め、当時高まりつつあった共和制主義者への傾倒につながった。
これがきっかけで地主階級は陸軍内で急成長していた共和党員勢力を支援し始めるようになり、アウレア法からわずか1年7カ月後に、王政は打倒されて共和制が宣言され、王室はブラジルから追放されることになった。
イザベル王女は、このような流れになることをどの程度承知していたのか…。とはいえ、奴隷制によって維持されてきたブラジル帝国の王系だけに、彼女の存在は黒人系コミュニティの中で顧みられることはあまりなかったようだ。
持ち上げられる〝白人支配に対するレジスタンス運動の英雄〟
むしろ近年は11月20日の「黒人意識の日」を祝日にする市が増えていた。聖市もこの日を以前から「市の祝日」にしてきたが、9月にタルシジオサンパウロ州知事は州の祝日にする政令をだし、今年から「州の祝日」に変わった(1)。
11月29日付G1サイトによれば、黒人議員連盟の主導により下院議会で賛成286票、反対121票により、「国の祝日」とする法案が同日承認された。この法案は21年に上院ですでに承認されているため、大統領の裁可を残すのみとなった。つまり、来年からは国の祝日となる(2)。
それまで、なぜ国の祝日ではなかったかといえば、ジウマPT政権時代の2011年11月11日に「ズンビーおよび黒人意識の日」創設が承認された経緯(3)があったからだ。左派的なニュアンスがあり、そのため「記念日」ではあるが、全国民のための「国の祝日」として制定されなかった。
ズンビーはアフリカのジャガ族王女の甥
では、なぜ11月20日が「黒人意識の日」かといえば、逃亡奴隷共同体キロンボーラ・ドス・パルマレスの指導者ズンビー(1655-1695)の命日が、1695年11月20日だからだ。白人支配に対するレジスタンス運動の英雄として黒人コミュニティで崇められている。
ここは現在、北東ブラジルのアラゴアス州ウニアン・ドス・パルマレス市に属する地域で、首都マセイオから約78Kmにある。
アフリカから連れてこられた黒人奴隷が、ポルトガル人などに売買されて働かされていた農場を逃げ出して、内陸部などの人目につかない山中や森の中に作った逃亡部落がキロンボーラだ。現在でも「キロンボ」という地名は全伯に散らばっているが、みなそのような出自を持つ場所だ。
「キロンボ・ドス・パルマレス」は当時最大の逃亡奴隷共同体で、その人口は最大で3万人にも達していた。農場、刑務所、奴隷宿舎から逃げてきた黒人奴隷は独自の戒律を持つ共同体を組織し、ポルトガルに近い面積を占めていた。
ズンビーは指導者ガンガ・ズンバの甥であり、このガンガ・ズンバは軍事的な伝統と優れた戦士を持つジャガ族(またはインバンガラ族)の王女アクアルトゥンの息子だった。
2019年9月8日付オブセルバトリオ・テルセイロ・セトール《国民の自由のために戦ったブラジルの奴隷王女》(4)によれば、《アクアトゥンはアフリカの王女で、コンゴ王の娘だった。16世紀の終わりに、彼女の国は傭兵グループによって侵略され、彼女が約1万人の男女からなるグループを指揮して侵略者に対抗したにもかかわらず、敗北した。敗北により、王女は捕まって奴隷市場に連行され、そこからブラジルに送られた。
彼女がレシフェに到着したのは1597年で、同年に40人の逃亡黒人グループがセーハ・ダ・バリガに到着し、後にキロンボ・ドス・パルマレスとなる地域の最初の中核を形成した》とある。
この辺の情報は伝承や伝説の寄せ集め的な側面が強く、歴史的事実としては諸説あるようだ。
ウィキペディア(5)によれば、ブラジルに到着した後、彼女はガンガ・ズンバと彼の兄弟を出産し、約20年間キロンボ・ドス・パルマレスのリーダーであった。
今風の言い方をすれば、ズンビーはコンゴ系3世だ。コンゴ王国の王家の血筋を引く人間として、白人支配から解放されるために生涯を戦いの中で過ごした。「ズンビー」という言葉はアフリカの言語キンブンドゥ語のズンベに由来しており、幽霊、亡霊、死者の魂を意味するという。
フォーリャ紙年表《キロンボ・デ・パルマレスの年表》(6)にあるように、キロンボはたびたび植民地総督府から軍隊を送られて壊滅させられそうになるが、待ち伏せなどで対抗し、1世紀前後も持ちこたえたようだ。
だが1695年11月20日、レシフェの植民地総督府が送り込んだ討伐部隊によってズンビーは殺された。彼の首は切り落とされ、塩漬けにされ、メロ・エ・カストロ総督のもとに運ばれた。レシフェでは、ズンビーの不死伝説に対する住民の信念を否定する目的で、パチオ・ド・カルモ広場で頭部がさらされた。
ブラジルで共同体再建を図ろうとした黒人たち
興味深いのは、ズンビーという存在は現在、「奴隷制に対するレジスタンス運動」「白人支配から逃れる」「黒人奴隷の自由解放」の英雄と政治的に理解されているが、学術的には少し違うことが分ってきたことだ。
《社会の一部の運動や分野では奴隷制度に対する抵抗の代表とみなされているにもかかわらず、多くのキロンボは内部的には奴隷制に依存していた。この慣行により、一部の理論家はキロンボの慣行を、アフリカに存在する王、将軍、奴隷などのさまざまな社会階級を維持するアフリカの保守主義であると解釈した(7)。
著者らは、パルマレスの住民側にも略奪的奴隷制が存在し、近隣の領土への侵入を実行し、そこから個人を強制的に農園で奴隷として働かせ、こうして一種の「共和国内での奴隷制」を発展させたと指摘している。農場から逃げてキロンボに行くことを拒否した奴隷も捕らえられ、キロンボで奴隷となった》(8)という驚くべきことが書かれている。
キロンボに独自の奴隷制があるのであれば「奴隷制へのレジスタンス」ではない。本人たちは「コンゴでの共同体をブラジルで再構築しようとしたのでは」と思える。だから王女の血を継ぐズンビーがリーダーになった。
16世紀から19世紀にかけて約400万人の男性、女性、子供がアフリカからブラジルに奴隷として連れてこられた。これはアフリカを出国した奴隷総数の3分の1以上に相当する(9)。それだけの人間が移動すれば、そのような共同体再建運動が起きるのは自然なことだ。
ブラジル文化の一部になったアフリカ文化
この11月11日付UOLサイト《100万人の奴隷を受け入れた港がリオで再開》(10)という記事も印象深かった。リオ市のヴァロンゴ埠頭が、黒人意識の日である11月20日から再開されるという内容だ。1843年にヴァロンゴ埠頭は帝国によって埋め立てられ、2011年のポルト・マラビーリャ工事中に再発見され、復旧工事が行われていた。
ここはアメリカ大陸における主要奴隷貿易港の一つで、唯一物理的に桟橋が保存されている場所として、2017年にユネスコの世界遺産に登録された。2026年にはそれを記念した博物館も建設される予定だ。
7日付アジェンシア・ブラジル《アンゴラ民族の国王がリオでリトルアフリカと出会う》(11)にも、アンゴラ共和国にある最大民族派閥のリーダー、〝バイルンド王国〟君主エクイクイ6世(現在では国として認められていない)の今訪問の目的は、奴隷黒人たちが「奴隷の子ではなく、アフリカの王と女王の子であることを説明するため」と強調したと報じる。
そして彼は《「リオの文化的特徴は、サンバ、カポエイラ、ジョンゴ(アフリカ起源のダンス)、美味しいアングー(Angu=アフリカ大陸西部で使われる言語の「アグン」から派生した名前を持つブラジル料理)など、みなアフリカ文化だ」と述べた》とある。
アフリカ系移民史を見ると、南米が地理的にいかに近く、歴史的に緊密な関係を持ってきたかを痛感する。(深)
(1)https://www.brasilnippou.com/2023/230916-15brasil.html
(5)https://pt.wikipedia.org/wiki/Aqualtune
(6)https://www1.folha.uol.com.br/fol/brasil500/zumbi_19.htm
(8)https://pt.wikipedia.org/wiki/Zumbi_dos_Palmares#cite_note-12