その日は、早起きした家族が手分けして、豚を屠るための準備にかかった。半日がかりで豚は解体され適宜に加工されるが、一部の肉は隣り近所へ配る慣わしになっていた。別の日には隣家からこちらにお裾分けがくる。自然と共存共栄の習慣が身についていた。
午後になって律子は近所へ豚肉を配って歩いた。かなり離れていても以前からの隣保には《お返し》として届けなければならない。部落の東側は未開墾の低地で、鬱蒼とした森林のままである。最近の律子は人影のない道を歩くのが好きになっていた。森林を抜けると日本人会館があり、斎藤さんの家が会館に隣接している。律子たちが懇意にしている家族だ。手を叩いて合図すると、長女のふみ子が出てきた。
「まあ、しばらくね」
ふみ子は律子の肩を強く抱き、頬ずりをした。ふさふさとした髪の毛が律子の頬を覆った。
「ふみちゃんは、いつもきれいだね」
「そうかしら」
彼女は頬を覆っていた髪を後ろに掻き上げた。少しあばたのある肌で、色白だ。二重瞼の目許が涼しい。笑うと両頬に深いえくぼを刻む。
「青年たちのよく集まるのも、ふみちゃんがいるからね」
「じゃないわ。隣が会館だからよ」
「会館が出来あがってからは楽しかった。天長節(天皇の誕生日)といっては運動会を催し、相撲大会が開かれたり、シンガポール陥落だ、ハワイ急襲だとニュースが入るたびに、近隣の植民地の邦人まで集まって賑わったものね」
「これからあの会館、どうなるんだろうね」
「戦争が終ったのだし、また利用できるでしょうよ。ふみちゃんの結婚式とか」
「よしてよ、そんなこと」
ふみ子は律子の肩を軽く叩いた。頬が赤くなっていた。
日曜日で、表のサロンには植民地の青年たちが大勢いるからと言って、ふみ子は家の横を通って炊事場へ律子を案内した。表に客のある時は婦女子は炊事場に集まる習わしになっていた。ふみ子はコーヒーを沸かしながら、
「その後、エレ(彼)はどうしてるの」
突然、ふみ子は訊いた。隆夫のことである。
「たまにお手紙頂くけど、一体、何を考え、どうしているのか、さっぱり解らないのよ」
律子はつっけんどんに言った。
「愛しているんでしょう」
「話がかみ合わないの……」
「何と言えばいいのかなあ、お二人とも可哀想。でも、戦争も終ったのだし、一人暮らしなんて楽しい筈ないから、彼きっと戻ってくるわ」