小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=83

 一週間が十日となり、一カ月過ぎても船影は見えなかった。家族を抱えての宿屋住まいには負担が大きい。南洋開拓への資金が宿泊代に消えてはならぬ。さては詐欺にやられたかと内心不安であった。持ち金の大半を遣い込んだ家族は、ひとまず田舎へ引き揚げたうえで、迎え船の到着を待つことにした。某氏の土地は売却済みであったが、先方は理解して、借地として受け入れてくれた。元の家に住みつくこともできた。無駄金は遣い込んだが農業に経験のある彼らは、家の再興をあまり苦にすることもなかった。ただ艦船の来航には神経を尖らせていた。船の入港のニュースが入るたびに息子をリオ・デ・ジャネイロまで出向かせたが、いつも空手形だった。官憲に訴える術もないのでブラジルの新聞にも採り上げられることなく、まるで無国籍者のの地下運動のような明け暮れだった。
 
臣道連盟
 
 山路達夫はマリリアで鈴木隆夫と知り合った。隆夫がブラジルに移住した頃、カフェランディアで田倉家と同じ耕地で働いたと聞かされ、田倉との友好関係から隆夫への親しさを増した。
「世間は広いようで、狭いものだな」
「田倉には律子という娘がいただろう」
「いるよ。利口な娘だが売れ残りだ。浩二という弟もいる」
「浩二は勝組か、それとも負組かい」
「正直な男だ。が、愛国心があるのかどうか解らない野郎で、俺はサジを投げてきた」
「なら、浩二も標的にするのか」
「待ってくれ。俺はそこまで考えてはいない」
「そうだ、他に急ぐ仕事があるからな。後まわしにしておこう」
 忠君愛国の精神を叩き込まれ、一旦緩急あればと待機しながら、出征の機会なく敗戦を迎えた若者たちは、脾肉の嘆をかこった。事あれば体当たりして行きたい血潮が滾っていた。そこへ日本が負けてないというニュースが入ったものだから、これ幸いと敗戦を唱える奴は非国民として成敗すべし、という大義名分をでっち上げたのだった。
 
 一九四六年の三月、バストス産業組合の溝部幾太郎が狙撃され、四月に日伯新聞社編集長の野村忠三郎が、そして六月には、退役軍人の脇山甚作が勝ち組の凶弾に斃れた。戦後一年間で十一件の殺人事件が発生、六十四名の傷害者を数えた。

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