《特別寄稿》平安貴族も食べた芋粥=実は粥ではなく高級デザート=サンパウロ在住 毛利律子

「古今姫鑑」で描かれた紫式部(月岡芳年/画、1876年、Tsukioka Yoshitoshi, Public domain, via Wikimedia Commons)

 こちらに移住して以来、日本語テレビ番組ではNHK国際放送やその教養番組を見る機会が増えて、ずいぶん賢くなったような気がする。特に毎年、一年を通じて、歴史上の人物の生涯を描いた大河ドラマを観ることは楽しみの一つとなった。
 今年は世界最古の長編文学「源氏物語」の作者・紫式部である。放送は始まったばかりだが、これは出だしから、単に美しい一巻の絵巻のような古典物語ではなかった。1000年前の生々しい権力構造社会の闇が、これでもかと暴露される。高貴な人々の中に潜む人格破綻的行動、立身出世のための熾烈な内部抗争、権謀術策の数々貪・瞋・痴の三毒にまみれた所業が繰り広げられ、固唾を飲んで見入ってしまう。今も昔も変わらないではないか。全く、今見るのに相応しい。
 平安時代は、会話の際に「扇子で口元を隠す」のがマナーといい、それが「雅な仕草」と言われるが、男女とも三人寄れば扇子で口元を隠しつつ、前のめりになって悪知恵の応酬、打算の掛け合い、嫉妬や陰口、悪口三昧の輪になる。まるで現代だ。
 もっと凄いのは、貴族の纏う豪華絢爛な衣装にはすっかり目を奪われる。いわゆる「衣冠・束帯」「十二単」等はあでやかこの上ないが、実際、日本には、このような着物を仕立てる高度な物づくり職人がすでに実在していたということに、改めて圧倒されるのである。また、貴族社会の諸行事・儀式における洗練された儀礼的所作、子女への厳しく徹底された英才教育には驚かされる。

平安貴族の食事

芋がゆ:平安時代のスイーツより(https://dailyessay.exblog.jp/28974332/)

 このドラマが放映されると、インターネットでは平安貴族の衣食住が話題になっている。中でも、貴族の食事に「芋粥」が登場するということは、興味津々である。なぜなら、芋粥と言えば、食糧難の時期に、少しお米が入った、ほとんどお芋のお粥を連想するからである。
 ところが「芋粥」は、単に「お芋を入れたおかゆ」にあらず。ここでいう「芋粥」の「芋」は山芋を「甘葛」で煮たおかゆのことで、貴族の食事のコース料理の最後に出るデザート、ソブリメーザ(sobremeza)とのことである。
 「甘葛」は甘味料のひとつで、砂糖が貴重な時代に重宝されていた高級食品であった。
 因みに、貴族は肉体労働をしないので、一日二食が基本で、朝は10時ごろ、夕飯は午後4時ごろであった。一日三食になったのは鎌倉時代からだという。
 主食は「白米」。それは「強飯」と呼ばれるちょっと固めのご飯であった。「強飯」は、朝食などでは、お粥にして出されることもあった。「硬めの粥」は現代の「ご飯」に近いもの。「軟らかめの粥」は、それこそ「お粥」のようなものであった。
 副食のおかずは実に豊富で、野菜や山菜、海藻などをはじめ、魚、鳥、イノシシといった肉類が並び、「塩」や「酢」といった調味料が添えられていた。
 紫式部の「源氏物語」に出てくる食品(副食)の一部は、雁の卵、鮎、鮒など池の魚、貝類、干した魚、若菜、筍、蓮の実、栗、果物等々。なかなか種類豊富である。
 それでは庶民はというと、主食は、基本的にアワやキビといった雑穀である。そして、少しでも腹持ちをよくするため、雑穀をお粥のようにして食べていた。
 副食は、基本的には「一汁三菜」で、毎日というわけではないが、野菜や魚なども食していたが、一般的に貧しく、きちんと食事をしていた人は限られていた。(『源氏物語にみる食生活 その粥について』高山直子)

「五位の芋粥物語」

 平安時代、この「芋粥」の甘さに恋焦がれた一人の下級貴族・五位の想いを文学にしたのが芥川龍之介であった。主人公の「五位」とは平安時代の位階の事で、最上位の正一位から最下位の少初位下まで全部で30段階あり、詳しいことは、ここでは割愛する。
 芥川龍之介の短編小説には古典を題材にした作品として、「羅生門」「鼻」「芋粥」などがある。「芋粥」の元になる話は『今昔物語集』の巻二十六第十七で、平安時代前期(9世紀半ば)の頃を舞台としている。
 『今昔物語集』自体に登場する主人公は、若き藤原利仁である。利仁が正月の宴会で、家来に署預芋(ねばりの強い芋、長いも、山芋、等々の事)粥を振舞ったところ、下級貴族五位の者が「ああ、お腹いっぱいになるまで芋粥食べたい…」と呟いた。
 五位の立場では、滅多に食べられない当時のごちそうの芋粥を「飽きるほど食べたい」という願望を抱いていたのである。この言葉を聞いた利仁は、出身地の越前から署預を山のように集めて署預粥を作り、食べさせた、というのがあらすじである。
 それでは、芥川龍之介はこの話にどのように迫ったのか。
 時は、「平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれればよい。それは最高権力者・摂政藤原基経の時代」と始まる。
 主人公は、「五位」という男。「姓名を明らかにしたいが、実際、伝はる資格がない程、平凡な男」
 風采は、「背が低い。それから寒むそうな赤鼻と、形ばかりの口髭で、眼尻が下つている。頬が、こけているから、顎が、人並はずれて細く見える。一々、数へ立てていれば際限はない。五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上っていたのである」
 この男が、いつ、どうして、「五位」の位に就き、基経に仕へるようになったのか、それは誰も知らない。すでに四十を越していて、同じような役目を、飽きもせずに、毎日、繰返している事だけは確である。その結果であろう。今では、誰が見ても、この男に若い時があつたとは思はれない。
 「このような風采を具へた男」なので、周囲から受ける待遇は冷淡を極め、軽蔑され、鼻で笑われ、見下されていたが、当人は腹を立てた事がない。彼は、どんなにいたずらにも反応しないのである。何を云はれても、顔色さへ変えた事がない。悪さを繰り返すガキども(子供たち)から揶揄われ、悪態をつかれても、苦笑いするだけだった。
 では、この話の主人公五位は、唯、軽蔑される為に生れて来た人間で、別に何の希望も持っていないかと云ふと、そうではない。五位は「芋粥」に、異常な執着がある。当時はこれが、無上の佳味として、公卿の食膳に上せられていた。
 ということは、「五位の如き人間の口」へは、年に一度、臨時の時にしか食べられない。その時でも、食べられるのは少量である。そこで「芋粥を飽きる程食うてみたい」という事が、彼の唯一の願望になった。
 我は、芋粥食うを見果てぬ夢にしたかったのに…勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。しかし実際は、その夢の実現のために生きていた。――人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまう。それを愚かと笑うものは笑え。ある日、五位が夢想していた事が事実となる。
 芥川は、「その始終を書くのが芋粥の話の目的なのである」、と断っている。
 或年の正月二日宴会の席でのこと。
 「大夫殿は、芋粥に飽き飽きした事がないそうだな」と、肩幅の広い、たくましい大男の藤原利仁から声を掛けられた。「お望みなら、私が嫌というほど食べさせようではないか」
 五位は、それを聞くと、慌あわただしく答えた。「いや……忝けのうござる」
 4、5日後、五位と藤原利仁は馬に乗り出かけることになった。五位は利仁に行く先を聞くが、答えてくれない。盗賊の出る地域まで来て利仁は、ようやく敦賀まで行くことを伝える。
 京都から敦賀まではとんでもなく遠く、盗賊がでる地域を二人で通ることに五位は不安で仕方がないが、利仁を頼りに進むしかない。そして、利仁の館に着く。
 その一間で寝ることになったが、五位は何年も「芋粥を飽きるほど食べたいと辛抱強く待っていたが、それが現実になりそうだ。何か支障が起きて食べれなくなったら良いが…」と惨めな思いで一晩過ごした。
 旅の疲れと気苦労で寝過ごしてしまった。雨戸を開けると、広庭で大勢が、大量の芋粥を巨釜で作っていた。そこはまるで、戦場か火事場のような騒ぎであった。五位は、そのさまを目の当たりにして、すっかり食欲減退してしまった。
 出来上がった芋粥を「どうぞ、遠慮なく召上れ」と言われても、一口も進まない。「何とも、忝うござつた。もう十分頂戴致しました。――いやはや、何とも忝うござつた」。五位は、しどろもどろになる。
 そして五位は、芋粥を食べる前の彼自身を、懐かしく思うのだった。それは、芋粥を飽きるほど食べたいという慾望を、唯一人で大事に守っていた、幸福な自分である。見果てぬ夢を叶えたいと強く思っていた時が、どれほど心が満たされていたことか――芥川は、以上の様に物語を締めくくっている。
 長年密やかに温めてきた自分の夢が、強引に一人の権力者の善意か、悪意か、いたずらか、によって現実になってしまった虚しさに、拉がれる五位の心がなんと痛ましいではないか。

古代・中世の芋粥の作り方

甘葛の作り方を書いた独立行政法人・農畜産業振興機構のサイトの一部(https://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_002756.html)

 最後に、五位が恋焦がれた「芋粥」の作り方は次のようなものである。
 味煎(「甘葛」の煎じた汁)一合に水二合を涌かして、署預(とろろ)の皮を剥いで薄く切り、さらさらと煮る(煮すぎないということ)。鍋は石鍋。食べる時には、小さい銀の尺子で盛って進める。銀の匙をつけるという説もあるとみえる。作り方も、食べる時の作法も、古代・中世、鎌倉時代まで類似している、という。
 以上のようにこの芋粥は、粥といえども、いわゆる「コメの粥」ではなく、山の芋、自然薯の類と考えられている署預(とろろ)が材料の、当時の貴重な甘味の進上品であったのだ。
 このデザートが、どのような場で振舞われたかというと、前述したように、正月の大饗宴や天皇即位式、節句祝いなどのフルコース料理の最後に供されていた、との記録が残っている。
 すなわち、古代・中世・鎌倉時代まで「甘さ」は貴重品であった。砂糖の輸入量が増大するのは室町時代末期と考えられ、甘葛煎が砂糖普及以前の甘味料であった。甘葛煎は、ツタからとった樹液(味煎)を煮詰めたもので、古代においては諸国から朝廷、天皇に進上されていた。
 一方、砂糖が始めて記録に登場するのは、『唐大和上東征伝』の天平勝宝六年(754)とされているが、古代の砂糖は甘味料ではなく、薬用であったと考えられている。それは、天平勝宝六年(754)、鑑真の第一次渡航積荷に「石蜜」「蔗唐」とあり、それは薬用の類であった。
 砂糖の輸入量が増大するのは、室町時代末期であり、大航海時代の幕開けによって貿易が発達し、南蛮貿易によってポルトガルなどの南蛮菓子が受容され、その結果、砂糖が甘味料として使用されるようになっていった。
【参考文献】
◎お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション “TeaPot”https://teapot.lib.ocha.ac.jp › record › files「芋粥の話」―有職故実から生活社会史へー古瀬奈津子)
◎青空文庫「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房、1968(昭和43)年8月


芋粥のレシピの一例
https://komonjocooking.hatenablog.com/entry/imogayu
(1)山芋の皮をむき、小さめの薄切りにして小鍋にいれる。
(2)ひたひたになるくらいの水とメープルシロップ・砂糖を加えて火にかける。
(3)鍋が煮立ったら、山芋がやわらかくなるまで弱火~中火で煮る。
(4)粥っぽくなってきたら、味見しながら甘味を調整して出来上がり。
〈材料(1人分)〉
山芋…10センチ㎝くらい
水…適量(かぶるくらい)
メープルシロップ…大さじ1
砂糖…大さじ1
※甘葛は樹液を煮詰めた甘味料で、砂糖が日本に伝わると姿を消してしまった。ここでは砂糖とメープルシロップを混ぜて代用。

最新記事