小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=90

 母は手術によって死亡した知人の誰彼の名をあげ、自分もその中に加えられたような淋しい表情を見せた。
「ママは死んだ人の名ばかりあげて、快くなった人のことは言わないのね。今のうちなら百パーセント大丈夫だというのに手術を嫌い、手の施しようがないと言われたら、それこそおしまいだわ」
 母は側の椅子に腰掛けて考え込んだ。私は炊事場の仕事を続けていた。自分ながら驚くほどの勇気がでて、この分なら母に感知される心配もない。安心したが、母の気持ちは鎮まらないらしかった。
 母は財布から常備薬を記したカルテを開き、医師の電話番号を繰った。医師と私の話に食い違いの生じることを恐れたが、医師だって患者を刺激することは言わないだろう。母は沈んだ声で長々と会話を続けた。日頃電話で要領を得ない母だが、その日は妙に神経の冴えた話し振りだった。しかし対話は容易に終わらず、私が食事の仕度を終え、母の側に寄ってしばらくしてから、
「それではそのようにお願いします」
 受話器を置いた。衰弱しているので、それだけの言葉に気の毒なほどの疲れを見せ、自らの胸に手を当てて動悸を鎮めていた。私は抱きかかえるように母を部屋に連れて行き、寝かせた。母は幾分上気した顔で眼を閉じようとせず、じっと天井の一角を見つめていた。
 
(三)
 
 母は四、五年前から消化不良や胃痛を訴えた。買物にでると眩暈がすると言い、時どき微熱を出すこともあった。その度に医師を訪ね、血液検査やX線写真を撮ったが、異常は認められず、例の胃下垂だと言われた。いつも同じような薬を与えられていた。病気は一進一退で全快はしない。再び医師を訪ねる。医師は貧血だの、風邪気味だの、時には神経質だとみなしたりした。
 母は楽天的である反面、確かに神経質でもあった。身体の調子がいいと朝から暮れるまで庭掃除や洗濯をし、間食を作ってみたり、知人がくると必要以上にお愛想をふりまいたり、ご馳走を振るまったりした。隣家にお芽出たがあると知れば、生まれる前からプレゼントを気にし、お産の通知があると誰より先に駆けつける。祝婚・葬礼ことごとにその調子で、病身であることを注意されても母の心遣いは止まなかった。止められぬ原因が病気にあるのか、止めぬから病気になるのか。

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