アビリオ・ジニス氏逝く=ポン・デ・アスーカル創業

アビリオ・ジニス氏(19日付イザーミの記事の一部)
アビリオ・ジニス氏(19日付イザーミの記事の一部)

 最大手スーパー・マーケット網の「ポン・デ・アスーカル・グループ」の創業者で実業家のアビリオ・ジニス氏が18日、肺炎による呼吸不全のため、サンパウロ市南部にあるアルベルト・アインシュタイン病院で亡くなった。87歳だった。同日付G1サイトなど(1)(2)(3)が報じている。
 ジニス氏は1936年12月28日、ポルトガル系移民を両親とする6人兄弟の長男として、サンパウロ市南部パライゾ地区で誕生した。
 1948年、まだ少年だった同氏は、父親の菓子店の開業を手伝った。父親が船で初めてブラジルに到着した際に見たリオ市の名所「ポン・デ・アスーカル」に感銘を受け、その名前を店名にしたのだという。
 1956年にジェツリオ・ヴァルガス財団(FGV)で経営学の学位を取得したジニス氏は、米国に渡ることを考えていたが、父親の強い誘いを受け、渡米を断念。1959年、サンパウロ市中心部のブリガデイロ・ルイス・アントニオ大通りに現在の形態である食料雑貨店のポン・デ・アスーカル1号店をオープンさせた。
 事業は成功し、1960年代の終わりには国内17都市に60以上の店舗を持つまでに成長した。
 71年、ジニス氏はブラジル初のハイパーマーケットのジュンボをオープン。その5年後、同氏は社会経済開発銀行(BNDES)からの融資を受け、当時サンパウロ市の小売部門最大手の企業の一つであったエレトロラジオブラスを買収し、成長、革新を続けた。
 ジニス氏はまた、ショッピングセンター内にスーパーマーケットを作り、店内に薬局を併設、24時間営業を展開した最初の人物でもある。同氏はブラジル・スーパーマーケット協会の創設者の一人であり、ビジネスで才能を見出し、育てるための研修生プログラムを創設したパイオニアでもある。同氏は10年間、国家通貨審議会(CMN)のメンバーも務めた。
 しかし、ブラジルで最も偉大なビジネスリーダーではあっても、困難な時期を経験している。1987年、国の経済危機の最中に経営不信に陥り、本社を売却。1989年には車で出勤中に誘拐され、10人の犯行グループにより、6日間監禁された。36時間もの交渉の末、衰弱した姿で解放されたが、薬の助けを借りて眠り、翌日には仕事に戻ったという。
 この苦境を乗り切り、1991年には負債を返済しただけでなく、利益も上げた。1995年、同氏はポン・デ・アスーカル・グループ(GPS)を上場させた上、資金を手にして再び小規模スーパーマーケットの買収に乗り出した。
 同氏はその後、グループの経営をプロ化し、自分の子供たちを後継者から外すことを決定。小売業を通じてエレクトロニクス事業にも参入した同氏は、1号店オープンから54年後の2013年、GPSから退いた。
 その後も、世界最大級の食品会社であるブラジル・フーズ(BRF)を率い、投資会社を設立すると、大手スーパーマーケットチェーンのカルフールの株を購入した。
 フォーブスの長者番付によると、同氏は実業家としての生涯を通じて20億米ドルの資産を築き、世界で1526番目の富豪としてランク付けされた。カルフールの大株主であり、カルフール・ブラジルの取締役会副会長、BRFの取締役会会長も務めた。
 スポーツ愛好家としても知られ、70年にはブラジルのモーターボート・チャンピオンに3度輝いている。
 最初の結婚で子供を4人、二度目の結婚では2人をもうけた。2022年に、当時58歳の息子ジョアン・パウロを心臓発作で亡くした時、ジニス氏は「父と息子というより、兄弟のような関係で、偉大な友人だった」と語っていた。
 ジニス氏は約1カ月間入院していた。告別式は19日午前11時から午後3時までで、同氏が生前応援していたサッカーチーム「サンパウロFC」の本拠地であるモルンビ・スタジアム内の大ホールで行われ、一般公開された。
 同氏は昨年12月17日付CNNブラジルでのインタビューに答え、「妻と子供たちには伝えました。私が死んだとき、『ああ、かわいそうな人』という群衆を望んでいません。ゴンザギーニャの歌をかけてください。『生きることは、 幸せであることを恥じないこと』です」と名曲「O Que É, o Que É?」の歌詞に自分の生涯を重ねた。

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