小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=95

 次の日十時頃、看護婦がきて、手慣れた残酷な動作で母の鼻腔から胃に通ずる管を入れ、鎮静剤注射を打った。母は管のために話せない口を動かして意識の朦朧としたことを告げたが、間もなく寝台車ごとエレベータに乗せられ、手術室に運ばれて行った。
 伯父は母に向かって、しっかりするんだぞと産婦を励ますように声をかけた。母は頷いて、私と父の顔を見た。私たちはもう母を励ます言葉をなくしていた。
 何分か過ぎ、我に還った父は手術の様子を知りたい、立ち会わせてくれと頼んだ。しかし、医師は、それは禁じられている、暫らく辛抱するようにと言った。
 
(五)
 
 手術は順調に終え、午後一時頃、母は部屋に運ばれてきた。その顔は生身のそれではない。顔面蒼白で頬骨が立ち、髪の毛まで艶をなくしていた。寝台車から寝床に移しても石ころのように意識がない。口に咥えた通気管からかすかな息遣いが聞き取れるだけだ。何時間経っても快復の様子が見えない。午後四時頃、かかりつけの医師が、報告に現われた。
「まだ転移してなくてよかったですよ。どういう種類の癌か研究所で調べさせることにしよう」
「先生、なかなか意識が戻らないのですが」
「大手術だったから、まだ休んでいる方がいい」
「……」
 母は出産の手術の際、麻酔の四、五時間の後には意識が回復したという。義兄の心臓手術の時でさえ、夕刻には意識が戻ったと聞いていた。とすると、この度の母の回復は非常に遅いことになる。私は、母がこのまま永眠してしまうのではという不安を聞いて欲しかったのだが、医師は例の事務的にして曖昧な言葉を残し、部屋を出ようとした。私は、手術後の母の寿命は、幾許のものかと訊いた。医師は急がしげに言った。
「私の患者には、手術の後、十年も異常ない人がいます……」
 
 母は翌日、やっと意識を取り戻した。酸素吸入は続いていたが、息苦しそうだ。ブドウ糖注射を輸血に変えてもらったりした。衰弱が激しいため手術に反対した親戚のものも一様に喜んでくれた。私はただ嬉しくて、昨日から徐々に温みを増してきた母の手足をさすり、輸血が順調に進行しているか、たえず気を配った。二、三日、徹夜で看病したが、少しも眠いとは思わなかった。
「先生、ほんとにありがとう。先生と神様のお陰で助かったわ……」

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