この男は兄弟の中で学校の成績が一番良く、大学を出て近くの中学校で教鞭をとるかたわら絵を描いていた。彼は子供の頃から、県内で催される児童画展などによく入選、入賞もしていた。一年下級であった矢野も彼の絵をよく真似たものだが、尋常四年で中退、ブラジルへ渡ったのでそれ以上の進展はなかった。田島はずっと絵を続けていて、現在は県内の《新世紀美術展》の審査員も務め、日展にも再三入選している。特選をとれぬのを嘆いているが、矢野から見れば恵まれた環境にあった。
田島の長顔に比して丸顔な夫人も、同じく教育者である。半日は家を留守にするが、二人の息子もはや中学生で手がかからぬという。矢野が訪ねると如才ない夫人は畳に額を押し付けるようにして、
「ほんまになぁ、遠いところをよくお出でくれはりました」
と歓待してくれた。田島は教育者であり、県内の歴史のみならず、日本の歴史をよく研究していた。奈良は歴史の古い地方だから、わずかな時間で話し尽くせるものでないが、彼と対話できることは大きな心の糧となるのだった。
「浩二は短歌に趣味がある。姉のいる所は橿原で、直ぐ近くが飛鳥地方だ。至る所に万葉の遺跡がある。飛鳥川は今も流れているよ。佐保川べりも歩いてみるといい。芥川龍之介の『羅生門』の跡もある。それから秋篠寺もいい。ひなびた寺だが国宝になっている技芸天像もある。これは技芸の神様ということで芸人や文芸人に人気があるんだが、なかなかの美人だぜ」
などと話してくれる。矢野はそれを詳しくノートし、言われた地をつぶさに尋ねて歩いた。田島は住宅の奥に大きなアトリエをもっていて、勤めの時間外はいつもこの乱雑で絵の具の匂うアトリエに座っていた。壁にもたせて沢山のストックが裏向けに重ねてあった。窓際のカンヴァスには描きはじめの仏像が渋い顔を見せていた。
「奈良に住んでいる故か自分の仏像には人気があるんだけど、仏像では入選しても売れないんだよ。一点だけ、女性像を描いた会心作が日展に入った。モデルの人がぜひ欲しいと言うんだ」
「どこに置いてあるの?」
「部屋にかけると、家内が嫌うのでストックの下積みさ」
田島は片側に立てかけてある中の一枚を引き出して、画架にかけた。
それは十二号の絵で、夏の薄い身体の透けそうな服を着てこちらを向いている半身像で、鼻筋がよく通り、眼は二重瞼でやや落ち込んでいるが、そのために彫が深く見え、少し冷たいようでありながらふっくらとした唇が笑っていて、女盛りの芳香が漂っていた。