友人の歴史研究家、宮村秀光さんから「サントスの海岸地方に住んでいた日本人が1943年7月7日に強制退去命令によって24時間以内に立ち退きさせられた時、自分は母のお腹の中で3カ月だった」とのことは聞いておりました。
宮村さんは1月1日生まれで、私は1月10日ですから自分のことのように聞き入り思っておりました。この度、文協でサントス強制立ち退きをテーマにしたドキュメンタリー映画『オキナワ サントス』(松林要樹監督、2021年)が上映されると言うことで、宮村さんと一緒に観ることとなりました。
1984年、私が39歳で宮城県人会会長に就任して、次の年か、宮村さんのお父さんの宮村季光氏が熊本県人会会長に就任されました。当時、高野県連会長は「県連センター」構想を発表されていました。私はそれに同調して高野会長のカバン持ちをしている時、季光氏も賛同された同志としての関係で自宅に招待され、奥様ともお会いしました。
季光氏は「明治の男」の雰囲気を持っていて、小柄だが背筋をピーンと立て、威厳に満ちておられた姿に憧れていました。奥様は上品で優しいご婦人でした。その時は秀光さんとはお会いしてなく、20年も経て知合いになりました。
季光氏は膨大な手記を遺されました。「将来のために書き残す」と表紙に書かれております。当時の雰囲気を感じさせる手記の一部分を、ここに書き出してみます。
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■「戦局」1943年7月2日5日前の手記
世界大東亜戦争の波は荒れに荒れて、世界中の大戦争となった。
当伯国(ブラジル)に於いても、独伊に向かって宣戦布告をして、我が帝国とも国交を断絶して排日運動に拍車をかけつつある。そのために、我々在留邦人はあらゆる方面から脅迫を受けつつある。何故ならば当伯国は独立国としては名ばかりの国で、事実は米国の支配下にあるような国故に、米国が我帝国の為に敗戦すれば敗戦するほど我々を脅迫する。
我皇軍の活躍は全世界に轟かせて、我々海外在留同胞を如何程に勇気付けることか。あ々、日本なればこそ、如何に脅迫され苦しめられても、皇国の連戦連勝があればこそ、我々は強い強い生き甲斐を感ずることか。
今に見よ、我が帝国が大東亜の盟主として世界に君臨する日を、その時こそ天皇万歳、大日本万歳だ。現在の当伯国は厳重なる取り締まりの下にラジオニュース取り締まり法にて取り締まっているが、我々同胞は当国のデマ宣伝にダマサレずに真相を覚知すべく東京放送の時間にはラジオにかぶりついて聞いている。
我が帝国は大東亜建設に一路整然と邁進しつつある。山本聯合艦隊司令長官の壮烈な戦死は世界にゼネラル山本の名を轟かせて、、、、、、
■「退去命(サントス退去)」
7月7日の日、突然、日独人のサントス退去命がオールデン・ポリチカより出る。即時退去命に 一時は皆困った。
自分には午後3時頃来る。その日は領事(スペイン)の所にて打ち合わせやら友人と会うなど一日が過ぎ、夜、歯科道具の小さい器具だけパラグアスーに発送する。スペインの金と取り替える際に刑事に捕まって困った。
8日午前10時に一行700名聖市(サンパウロ市)に向かって発、午後3時着、先着の者と会っていろいろ語る。厳重なる警護下にいろいろの手続きを済ませて、その夜は収容所にて一泊、夜は友達と戦局の動き、今後の身の処置について一晩語った。
この退去命の根本原因はサントスの沖合いにて米伯両国の船がドイツの潜水艦がによって7隻沈められた為による故に、サントスが戦争区域になったためであった。
7月9日の朝は早くから忙しかった。まるで捕虜取り扱い同様なのに一同憤っていた。自分も2、3回フィスカールと口論する。結局損だ。仕方がない。戦後にこの埋め合せをしてもらうより外にない。
刑事付きでカミニョンにて送られるので聖市の市民が皆見ていた。今に見ておれと義憤の火が胸を熱くするのをどうすることも出来なかった。
雪子生後8カ月の可愛い我が最愛の天使は何も知らずに妻の胸に抱かれてニコニコしている。午後6時頃特別車にてソロカーバ駅を発つ。各自希望の地に向かって行くので、皆思い思いの所にて下車する。手荷物一つでサントスの家をそのままにて来ているので皆心配していた。
夜は寒かった。雪子のお守で妻も疲れていた。10日の午前10時にパラグアスー駅に着き、丸林旅館に行く。皆さんサントスの状況を聞きに来るので疲れているが語る。夕方市長が来たので語る。
収容所では寒かったので風邪を引いて困った。11日やっと我が身の自由を感じられ すっきりした。、、、、、、
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宮村秀光さんと知り合ったのは2010年頃、戦後移住60周年記念の話が出始めた頃で、「熊本県人会会長の宮村季光さんがお父さんですか、、、、お母さん敏子さんのお腹に居ってサントスから、、、」というところから親しみを感じました。さらに同じ年でもあり、何かにつけてお付き合いさせて頂いておりますが、この『オキナワ サントス』で共有することが増えたように感じます。
40年前の高野会長、宮本副会長、浜田理事、宮村熊本県人会会長さんらと県連センターで同志となり語り合った頃が懐かしく甦りました。