その美しさと圧倒的な魅力で知られ、政治的な影響力を持ち、歴史的人物としてテレビドラマ化もされたアナ・ジャシンタ・デ・サン・ジョゼ氏の死亡証明書が、死後151年経過した今月6日に発行された。別名「ベージャ夫人」として知られる。この文書は彼女の博物館に送られ展示される予定だと28日付G1(1)が報じた。
彼女をモデルにしたドラマ(ノベーラ)『ドナ・ベージャ』(89回)は1986年3月から7月までTVマンチェテで制作放送され、当時大人気を誇った。
1873年12月20日、ミナス・ジェライス州バガージェン(現エストレラ・ド・スル)で亡くなっていたが、実は死亡証明書がなかった。そのことを確認した検察局の申請に応じ、裁判所が今回許可した。
検察局はベージャ夫人の財産目録と遺言書のコピー、および登記所から提供された情報を提出した。正式な死亡登録が150年以上遅れたために、今ではもう文書的証拠や証人の証言が手に入らない。そのことを理由に今回発行を許可したという。
アナ・ジャシンタは1800年1月2日に、ミナス・ジェライス州フォルミガで生まれ、アラシャに移り住んだ後、彼女の名声は国中に広まった。成長するにつれ、彼女はその白い肌、ブロンドの髪、明るい瞳から、最も美しい少女として認められるようになった。彼女の祖父は、彼女の美しさは真っ赤な唇の形をした花「キスフラワー」(Palicourea elata)と同じくらい珍しいと言って「ベージャ(ポルトガル語でキスの意味)」という愛称をつけた。
その美しさゆえに女性たちからは嫉妬され、執政官ジョアキン・イナシオ・シルヴェイラ・ダ・モッタに誘拐され、強制的に愛人にさせられるという悲劇にも襲われた。だがその境遇から資産を作り、大きな家を建て売春宿を開いて財を築いた。自身の立場を超えて政治に積極的に参加し、19世紀の女性が期待される役割を否定した。
その美貌と魅力のみならず知的で進取の気性に富み、特に金儲けには長けていた。53歳でアラシャを去り、バガージェンに移り住み、そこで娘の面倒を見ながらダイヤモンド採掘に従事した。その後、腎臓の炎症により73歳で亡くなっている。
歴史家のラケル・レオン氏は、ベージャ夫人は当時としては非常に〝差別化された〟女性だったといい、「彼女はシングルマザーで、リベラル政治に積極的で、集会は彼女の農家で開かれていた。19世紀の女性は従順が良しとされたが、ベージャ夫人は真反対だった」と説明した。
ベージャ夫人の遺体はエストレラ・ド・スルの中央広場近くの古い墓地に埋葬され、彼女の名前を冠した博物館が彼女の偉業を称えている。「ベージャ夫人市立博物館」はアラシャの政治的解放100周年である1965年に設立され、彼女をはじめとする著名人の歴史物が展示されており、アラシャの観光名所のひとつになっている。