ブラジル沖縄県人会の第3代会長を務め、第2次世界大戦後の母県沖縄に戦災救援運動として支援物資を送る手立てをするなど貢献した故・上原直勝(なおかつ)氏は、1943年7月8日に発生した「サントス強制退去事件」にも家族して巻き込まれた屈辱的な経験があった。サンパウロ市内に住む、事件当時10歳だった末息子の上原キヨシさん(90、2世)と、同事件を伝え聞いたニルセ夫人(69、3世)、キヨシさんの姪(めい)に当たる上原イザさん(68、3世)の3氏に3月11日、宮城あきら沖縄県人移民研究塾代表と島袋栄喜元ブラジル沖縄県人会会長とともに面会し、当時の話を聞いた。(松本浩治記者)
上原直勝氏は1917年に「河内丸」で渡伯。兄の直松氏は第1回笠戸丸移民として1908年に先に海を渡ってきていた。
キヨシさんとニルセさん夫妻の話によると、直勝氏は戦前、沖縄県北部の国頭郡国頭村の「奥(おく)」と呼ばれる地域に住み、村会議長でもあった。しかし、「協同組合的な思考」が強いことで当時、外部から圧力をかけられたこともあったとし、広い土地を目指してブラジルに行くことを決意したという。
ブラジルへ渡った後、サンパウロ州ジュキア線でバナナ生産組合を設立するなどして、戦前のブラジル沖縄県人会組織「球陽協会」創立(1926年)の立役者の一人として尽力し、第3代会長を10期10年務めた。
そうした中で1943年7月8日、ドイツの潜水艦がサントス沖で伯国と米国の商船を撃沈したことに端を発し、敵性国民だった日本人とドイツ人は当時のブラジル警察当局によって24時間以内の退去を強制された(サントス強制退去事件)。
直勝氏はナベ夫人(旧姓・宮城)との間に7人の子供(6男1女)に恵まれ、サントス市で生まれ育った末っ子のキヨシさんはサントス事件当時、まだ10歳の子供だった。その頃は直勝氏の家族と、兄の直松氏(1924年に死去)の未亡人・マツ夫人とその3人の子供(長女・ヒデコ氏、次女・サダコ氏、長男・松太郎氏)が大家族として一緒に暮らしていた。それぞれの子供たちは当時、学校や勤め先に出ていたが、キヨシさんが学校から帰ってきた際、日本人1世である父母(直勝夫妻)と、マツ夫人の3人はすでに自宅から聖市へと強制退去させられた後だった。
直松氏の長女ヒデコ氏はその頃、原村(はらむら)という鹿児島出身の日系2世の男性と結婚していたこともあり、当時では珍しい大学卒業の会計士だった原村氏が警察などと交渉した結果、マツ夫人は数カ月でサントスに戻ることができたという。そのため、サントスに戻ったマツ夫人は、直勝夫妻に代わってキヨシさんら子供たちの面倒をみたそうだ。
退去命令を受けた直勝夫妻はサンパウロ市セントロ区のカンタレイラ中央卸売り市場近くに住み、1年後にようやくキヨシさんら息子たちをサンパウロ市に呼び寄せることができた。
サントス事件当時のことについてキヨシさんは、「怖かった」と言葉少なに話すだけだが、いきなり父母や伯母を強制退去させられ、強烈な悲しみと不安に襲われたことは想像に難くない。(つづく)