上原直勝氏は第2次世界大戦後のブラジル日系社会で、沖縄戦で廃墟と化した郷土の同胞救済のため仲間たちと「沖縄戦災救援委員会」を結成して救援活動を展開し、支援物資を募って沖縄県に送るなど尽力した。一方、戦後の「勝ち負け抗争」の中で認識派(負け組)として臣道連盟に狙われ、「当時のDOPS(秘密警察)から24時間体制で護衛されていた」(上原ニルセさん)という。
ブラジル沖縄県人会の第3代会長としても活動した直勝氏は1952年、食道ガンのため59歳で亡くなったが、「戦後の沖縄県人会の産みの親」(宮城あきら沖縄県人移民研究塾代表)と言われるくらい県人会に貢献した人物だった。
直勝氏の末息子の上原キヨシさん(90、2世)は高校卒業後、徴兵制度により1年間、陸軍で訓練を受けた。徴兵義務から戻った直後に父親が亡くなり、日本の敗戦で戦後は伯人から疎まれるようにもなるなど、面白くない日々が重なった。その影響でキヨシさんは、日系人の仲間とつるんでは、リベルダーデ地区等でブラジル人グループと諍いを起こして警察に逮捕されるなど、「愚連隊」のように荒れた時期があったそうだ。そういう中にあっても、父親たちが募った母県への救援物資を救援事務所に運んだり、郵送を手伝った記憶を蘇らせて語っていた。
その後、親族として信頼していた会計士の原村氏(従姉妹のヒデ子さんの夫)と共同経営でサンパウロ市北部のジャサナン地区でピーナツ加工工場を運営し、1960年頃まで続けた。さらに、同地でプラスチック製品製造機械工場も経営し、90歳となった現在も工場に毎日のように足を運ぶ生活を続けている。
キヨシさんはサントス事件について、生前の直勝夫妻から直接聞いたことは一度もなかったという。しかし、妻のニルセさんは、父親の梅木一(うめき・はじめ)氏が生前の直勝氏とテニスを一緒に行うなど親しい間柄だったことから、直勝氏のことを伝え聞いていた。今回の取材では時間的な問題で詳細内容を聞けなかったが、山口県人だったと見られる梅木氏もサントス事件で強制退去命令を受け、サンパウロ州レジストロに追いやられた過去があったそうだ。
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一方、キヨシさんの姪である上原イザさん(68、3世)は、笠戸丸移民だった上原直松氏(直勝氏の兄)の孫で、キヨシさんが幼少年期にサントス市で一緒に暮らしていた従兄弟の松太郎さん(直松氏の長男)の長女に当たる。
イザさんが父・松太郎さんから伝え聞いた話によると、サントス事件当初、直松夫人のマツさん、直勝夫妻の3人が強制退去させられた後、「ブラジルの警察だか、(一般の)ブラジル人だか分からないが」(イザさん)、家の中にあった家財道具などを勝手に盗んで持っていかれたという。さらに、当時サントス市近郊のポンタ・ダ・プライアにあったシャカラ(農園)に植えられていた「シュシュ(ハヤトウリ)」を盗られる被害も受けた。
松太郎さんは学生時代にバスケットボールのサントス代表選手として活躍し、奨学金の恩恵を受けるほどの名選手だったそうだ。その後、会計士となり、サントス市にある沖縄県人の施設である「アトランタ会館」も設立するなど尽力。サントス市議も30年にわたってつとめ上げ、地元の発展に貢献してきた名士の一人だった。(おわり、松本浩治記者)