《記者コラム》7月25日に政府謝罪を再審議=恩赦委員会が日本移民迫害を

政府謝罪を7月25日に首都で再審議決定

恩赦委員会のアルメイダ委員長がオンラインで準備会合をし、7月に日本移民の件を再審議する方針を決めた(2023年3月30日付アジェンシア・ブラジル、Foto: Lula Marques/Agência Brasil)

 4月24日午前、戦中戦後の日本移民コミュニティ迫害への政府謝罪を求める見直し請求が通り、7月25日(木)午後2時から首都の人権・市民権省恩赦委員会(Comissão de Anistia)で討議されることが決定した。今までの経緯は3月26日付本紙《恩赦委員会が再検討始めるか=大戦での日本移民迫害への謝罪》(1)に詳述。
 順番からすれば、今件は来年以降に扱われる可能性が高かった。だがブラジル沖縄県人会メンバーと共に発起人の奥原マリオさんがサンパウロ市のIMJ事務所で、恩赦委員会のエネア・デ・ストゥッツ・エ・アルメイダ委員長とオンライン会議を開いた結果、宮城さんらの「被害者が高齢化しているので早期開催を」との訴えが認められ、7月の日程が決まった。審議次第で当日、政府謝罪が行われる可能性がある。

 このオンライン会議には奥原さんに加え、沖縄県人会の高良律正県人会会長、島袋栄喜元会長、宮城あきらブラジル沖縄県人移民塾代表が参加し、アルメイダ委員長は約30分にわたって当時の日本移民に対する非道な行いに耳を傾け、7月審議を決めた。
 この謝罪請求とは「大戦中の日本移民サントス強制立ち退き」や「終戦直後の勝ち組幹部172人のアンシャッタ島監獄収監」などに代表される政府による移民迫害を巡り、奥原マリオさんとブラジル沖縄県人会が連邦政府の恩赦委員会に請求していた「損害賠償を伴わない謝罪請求」(件名番号08000.039749/2015-43)のこと。

最審議が決まったオンライン会議の後に乾杯する奥原さん(左から)、高良会長、島袋元会長、宮城さんら委員会の皆さん

再審議決定に沖縄県人会メンバーらが歓喜

 オンライン会議後、高良会長は「再審議が決まったことに満足している。沖縄系コミュニティはとても喜んでいる」と笑顔を浮かべた。沖縄県人会として今件に取り組むことを決めた時の会長である島袋さんも、「今日は記念すべき日だ。今まであきらめずに続けてきた奥原さんに感謝したい。『群星』で証言を集め続けている宮城さんにも心から感謝したい。映画『オキナワ サントス』上映会を続けてきた上原定雄前会長の貢献も讃えたい」と述べた。
 機関紙『群星』で毎号、サントス強制立ち退き事件の証言を掲載し続けてきた県人移民史塾の宮城あきら代表も、「2022年6月の審議では7対2で否決され、とても残念に思っていました。でも再審議が決定され、その意味を噛みしめています。サントスを追放された585家族の皆さんに対し、政府は80年以上を経ても何の謝罪もなかった。証言してもらった22人も高齢になり、亡くなっている方もいる。ぜひ生存しているうちに結論を出してほしかった。再審議が決まり、先人に対して申し訳が立った。当日に期待したい」と喜んだ。
 奥原マリオさんも「(真相究明委員会の時から数えれば)実質20年以上この運動を続けてきた。前政権で否定されたとき本当にがっかりした。コミュニティの将来にとって、日本移民史の正当な評価を確立することはとても重要なこと。いままで僕を応援してくれた皆さんに感謝したい」と述べた。
 12日付フォーリャ紙サイトでも《恩赦委員会は強制収容所に収容された日本人に集団賠償を行う》(2)との記事をだし、7月25日に審議が行われ、恩赦委員会はアンシェッタ島で収監されていた《日本人囚人に対する人権侵害を認める》と報じられている。
 来年の終戦80周年を目前にして「日系社会の戦後」がようやく終わるのかもしれない。

実際の恩赦委員会の審議の様子

戦前から始まり戦中に激化した日本移民迫害

 戦前移民の特徴は強い愛国心を持っていたことだった。明治後半の日清・日露戦争で呼び起こされた強い愛国心をもった世代が家長となって渡伯していたからだ。1920年代、米国から「日本移民は固まって混ざらない」「黄色人種が白色人種を凌駕するおそれがある」との黄禍論が広がり、ブラジルでも同様の世論が形成されつつあった。そこに1930年、国粋主義のヴァルガス大統領が登場し、一気に弾圧が強まった。
 ブラジル政府による日本移民迫害の例は数々ある。まず1937年の14歳以下への外国語教授禁止令による子弟教育に絶望を覚えた移民は多く、翌38年12月には全国の日本語学校に閉鎖命令というナショナリズム旋風が吹き荒れる中、39年には日本に引き上げる帰国者が多数出た。だが帰れるのは資金的な余裕がある者だけで、大半には無理だった。
 41年7~8月に邦字紙が強制廃刊され、再刊される1946年10月までの5年間余り、日本語情報は空白期を迎える。正しい情報が何か分からない中で不安ばかり高まる中、12月に太平洋戦争が開戦となり、米国の根回しでブラジルは42年1月に枢軸国に対して国交断絶をした。同1月に日本語で書かれた書類の配布禁止、公衆の場での日本語使用禁止、保安局の許可なく転居・旅行の禁止となった。これにより広場や通りで日本語を話しただけの人が、警察に捕まるという事態になった。
 ブラジルは枢軸側に着くと思っていたドイツが激怒して、潜水艦をブラジル沖に送り込み、伯米間の商船を次々に攻撃して大量の死者と物的な被害が出た。それを補償させるために、ブラジル政府は2月11日に敵性国資産凍結令「大統領令第4166号」を出し、日本政府関連組織や日本人経営民間企業も連邦政府が送り込んだブラジル人監督官の監視下に入った。
 同月、戦前から日本人街として知られていたセントロのコンデ街は強制立ち退きが執行され、日本人は「第5列部隊」(Quinta Coluna=スパイ)と呼ばれた。5月頃から日本人コミュニティの指導者が次々に警察に拘留されるようになり、6月に差入れなどの救済を行うためにドナ・マルガリーダ渡辺を実行委員長とするサンパウロ・カトリック日本人救済会が活動を始めた(3)

1943年7月9日付エスタード紙、サンパウロ市の移民収容所に着いたサントス強制立ち退きの人々

交換船から移民だけ降ろされる悲劇も

 7月には、日米双方の外交官や在留民を自国に戻す交換船を出し、リオに寄港することになった。大戦中に不安感が高まり、連合国側のブラジルで敵性国民として民族弾圧を受けて強烈なストレスがたまっていた。そんな移民大衆の心をくじいたのは、頼りにしていた日本国外交官たちの一斉退去だった。
 捕虜交換船「グリップスホルム号」は当時の日本移民に深い絶望を刻んだ。そもそも交換船が来ること自体、一般の在留邦人には知らされていなかった。外交官が帰国する際、挨拶も一切なく、移民は蚊帳の外に置かれていた。このとき、交換船に乗れたのは外交官と企業関係者のみ。
 『交換船』(鶴見俊輔、加藤典洋、黒川創、新潮社、2006年)には、その時のことがこう書かれている。《ブラジル政府および駐ブラジル米国大使館は、リオ・デ・ジャネイロでグリップスホルム号に三八三名の日本人帰還者が乗り込んだのち、なお三四名分の余裕があるので、さらにこの数だけの日本人を追加して乗船させるよう、ブラジル駐在の石射猪太郎大使に対して主張した》(328~329頁)。つまり「34人分の余裕」があった。
 『コロニア五十年の歩み』(パウリスタ新聞、1958年、以後『歩み』)によれば、サンパウロ市の移民収容所に拘束されていた移民の中で、家財をたたき売って帰国を決めた23人らが交換船帰国希望者としてリオへ向かった。彼らは42年7月2日いったん船に乗って「夢にまで見た帰国がようやく叶う」と家族ともども心から喜んだ。《ところがこうした喜びも束の間、みな下船を命ぜられたのである。命令したのは大使石射猪太郎だった》(『歩み』、148ページ)
 移民の帰国希望組がどれだけ落胆したか――祖国に戻ることを熱望しながら20年も30年も耐えた時の心境が、想像できるだろうか。しかも帰国船の甲板まで上がったのに降ろされた…。いったん帰国できると希望を持った後の絶望はより深かった。この経緯はニッケイ新聞21年9月28日付《記者コラム アルプスの少女ハイジと民族テロ=『灼熱』で描かれる通低した病(4)》に詳しく書いた。
 この時に乗れなかったメンバーの中には、終戦直後に勝ち組強硬派や戦勝ニュースを流す雑誌発行をするようになる人間がいた。特に根来良太郎は交換船に2度も乗ろうとして乗れなかった。その恨みをはらすために、元々は道徳的団体だった臣道連盟を、旧勢力打倒という政治目的を持った団体に変質させていったとみられている。終戦直後、臣連の理事長吉川はまだ獄中にあり、根来が専務理事としてその中心をなしていたからだ。
 このように日本移民迫害が、終戦直後の勝ち負け抗争を激化させたと言えるだろう。

戦中の移民救済に奔走したドナ・マルガリーダ

戦中戦後の日本移民救済に尽力したドナ・マルガリーダ渡辺

 ドイツ潜水艦がサントス沖の米国とブラジル商船を沈没させたことから海岸部にスパイが潜伏しているとみたブラジル政府は1943年7月8日、サントス沿岸部の日本移民6500人とドイツ移民の24時間以内の強制退去を命じた。それまで営々と築いてきた財産をなけなしの二束三文で投げ売り、もしくは置き去りにして伯人に奪われた日本移民は多く、しかもそれを政府に訴える手段も方法もなかった。
 強制立ち退き者をサンパウロ市の移民収容所で支援したのが、ドナ・マルガリーダ渡辺だ。『救済会の37年』憩の園記念誌(1979年)』の中で、救済会創立者の一人で実際に救援に関わった高橋勝さんは立退き者に関して、《戦時下の敵性国人として、人間扱いしてくれない、飲まず食わず、捕虜みたいなものでした》(11頁)、ドナ・マルガリーダも《貧困者や病院や孤児や、はてはキチガイになった人がでてくる、そんな状態の中で、石原さん、高橋さんと三人で働きました》と証言した。
 このサントス強制立ち退き事件を特集した『群星別冊』(日ポ両語、ブラジル沖縄県人移民研究塾、2022年)〈5〉や、ドキュメンタリー映画『オキナワ サントス』(松林要樹監督、2020年)〈6〉は必見。これはアマゾン・プライム・ビデオで視聴可だ。
 当時その事実を書くだけで国外追放にされる危険性すらあった。1948年3月3日午前10時、サンパウロ市ピニェイロス区の寄宿舎学校「暁星学園」に社会政治警察(DOPS)の刑事が突然訪れ、著書『南米の戦野に孤立して』を出版したばかりの岸本昂一学園長(後の新潟県人会長)に出頭を命じ、同書を全て押収した。
 同書にはサントス強制立ち退き事件を《大南米におけるわれらの「出エジプト記」》と聖書になぞらえた告発を始め、数々の戦中の日本移民迫害の事実が記されていた。岸本氏は約1カ月間も投獄され、以後10年間は「国家の脅威」として国外追放裁判と闘うことになる。その詳細はニッケイ新聞の連載《終戦70年記念『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ》(7)に詳しい。
 その結果、軍事政権時代に刊行された400頁もある代表的移民史『日本移民八十年史』にもサントス事件はわずか10行の記述しかない。
 戦中に日本人迫害をした同じ警察機関が、終戦直後も勝ち組の取り締まりを行った結果、「勝ち組幹部」というだけで何の罪も犯していない日本移民数千人が逮捕抑留され、うち指導者格の170人余りが、実際に殺人事件を起こした強硬派の人々と共に監獄島アンシェッタ島に送られ、約2年も過ごした。今回の恩赦委員会ではこの問題が中心的に取り上げられる模様だ。
 その事情はドキュメンタリー映画『闇の一日』(奥原マリオ純監督、2012年)(8)が詳しく、ユーチューブで無料公開中。ニッケイ新聞で2015年5月に連載された《島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記(日高徳一著)》(9)にも詳しい。
 2018年2月16日付ニッケイ新聞《「政府の公式謝罪は重要」=パット・フー=高井フェルナンダ=アンシェッタ島収監の祖父を語る》(10)にあるように、監獄島収監者の子孫には有名なバンド「パット・フー」のボーカル、高井フェルナンダもいる。

2008年6月、日本移民100周年で来伯された皇太子殿下(当時)のご臨席のもと、リニューアル落成された日本人学校

事件の現場となった日本人会会館へツアー

 清和友の会(中沢宏一会長)ではサントス強制立ち退き事件を身近に感じるために、6月8日にサントス日本人会会館へのバスツアーを行う。参加希望者への参加呼びかけは、後日改めて記事にする予定。
 この会館は、1943年7月8日の強制立ち退きで連邦政府に強制収容され、その後、陸軍が長年占拠・利用してきた建物で、地元日本人会がコツコツと返還運動を続けてきた。移民100周年を目前にした2004年に日本人会が1万人署名を行い(11)、2006年に陸軍がようやく返還を承認(12)して建物の使用権が日本人会に渡されて日本語学校として利用を開始した。
 2008年の日本移民100周年で皇太子さま(現天皇陛下)がご来伯された際にわざわざお立ち寄りになり(13)、それもあって日本移民110周年の2018年に地権も完全返還(14)された。まさに、サントス強制立ち退き事件を象徴する建物だ。
 ツアー当日は母のお腹で5カ月だった時に両親と姉が強制立ち退きの目に遭った宮村秀光さんも同行して逸話を語るほか、現地でも返還運動に奔走した中井定男さんが説明をするという。中井さんの祖父、中井茂次郎さんはサントス日伯漁業組合創立者で、1952年に日会を復活させて初代会長に就任、当初から返還運動を進めてきた。
 ドナ・マルガリーダが創立した聖母婦人会は7月14日(日)8時からサントス強制立ち退き者の追悼ミサをサンゴンサーロ教会(Praça Dr. João Mendes, 108)で行う予定。同聖母婦人会はドナ・マルガリーダの列聖運動も進めており、連邦政府の初めての謝罪が実現すれば、「ドナ・マルガリーダの奇跡」といえる出来事だ。
 奥原さんは「日本移民はスパイの汚名を着せられた歴史を、そのままにしておいてはいけない。大戦中に資産凍結をした大統領令第4166号は今も残っている。今も同じことが起きる可能性がある。過去の反省に立って、ブラジルの未来を変えるために、我々は今声をあげないといけない。ぜひ7月25日にみんなでブラジリアに行きましょう」と呼びかけている。(深)

(1)https://www.brasilnippou.com/2024/240326-column.html

(2)https://www1.folha.uol.com.br/colunas/painel/2024/05/comissao-de-anistia-fara-reparacao-coletiva-a-japoneses-mantidos-em-campo-de-concentracao.shtml

(3)https://www.brasilnippou.com/2024/240319-column.html

(4)https://www.nikkeyshimbun.jp/2021/210928-column.html

(5)https://www.brasilnippou.com/2022/220628-21colonia.html

(6)https://okinawa-santos.jp/

(7)https://www.nikkeyshimbun.jp/page/4?s=表現の自由と戦中のトラウマ

(8)https://www.youtube.com/watch?v=kbaehRBjQ98

(9)https://www.nikkeyshimbun.jp/?s=島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記

(10)https://www.nikkeyshimbun.jp/2018/180216-71colonia.html

(11)https://www.nikkeyshimbun.jp/2004/040131-61colonia.html

(12)https://www.nikkeyshimbun.jp/2006/060506-72colonia.html

(13)https://www.nikkeyshimbun.jp/2008/080626-61colonia.html

(14)https://www.nikkeyshimbun.jp/2018/180712-61colonia.html

最新記事