《特別寄稿》日系ブラジル人3世の落語家らむ音さん=日本で活躍、3カ国語で挑戦=ジャーナリスト 高橋幸春

 古典あり新作ありで、多くの人を楽しませるのが落語。ネイティブではないというハンデを乗り越え、一人の女性噺家が活躍している。代表作は『三カ国語寿限無』。その傑作が誕生したワケやいかに。稽古話の苦労など交え、らむ音さんに聞いた。(月刊『望星』5月号に掲載、同編集部の了承を得て転載)

多数の言語が飛び交う環境

――簡単にルーツを教えてください。
 父方の祖父は群馬県出身で戦後ブラジルに渡りました。祖母も青森県からの戦後移民です。母方は、沖縄県出身の曾祖父と熊本県出身の曾祖母がブラジルで出会っています。記録は残されていませんが、二人とも初期移民だと思います。
――ご両親は?
 父はサンパウロ市出身で、サンパウロ大学でロボット工学を学んでいました。母は勉強するためにサンパウロに出てきて、そこで出会ったそうです。父の来日は1989年で、デカセギというより、アルバイトで学費を稼ぎ、日本の大学院で学ぶというのが目的でしたが、アルバイトで学費を稼ぐのは困難だと判断し、友人と二人で解体業の会社を起こし、現在は土木建設の会社を経営しています。
――らむ音さんは日本生まれですね。
 そうです。妹二人も日本で生まれ、日本の学校に通って勉強してきました。日系3世の母は、来日した頃は、日本語をまったく話せず、家族間の会話も当然ポルトガル語です。父の会社で働いている人も外国籍の人ばかりで、ブラジルはもちろんペルー、インドネシア、サウジアラビア、フィリピンなど、いろんな国の人がいました。休日のバーベキューパーティーでは多数の言語が飛び交う環境で育ちました。
――らむ音さんも日本語では苦労してきたのでしょうか。
 ほとんどと言っていいほど日本語を話す機会はなくて、日本語を話すようになったのは保育園に通うようになってからだったと思います。先生の言っていることがまったく理解できない状態でした。
 小学校でも、セーラームーンごっこをして遊んだりして、会話は少しずつ覚えていきましたが、先生の言っていることがほとんど理解できませんでした。成績がよくなるはずがありません。とにかく叱られてばかりでした。
――中学、高校では?
「そんなことも知らないの」「バカじゃないの」って言われ続けていると、自分に自信が持てなくなってしまう。私自身も本当に「バカ」で、将来何もできなくて仕事にもつけないだろうって思い、妹たちにその時には面倒見てねって本気で頼んでいました。ひきこもりになるということはありませんでしたが、何度も同級生から「ブラジルに帰れ」と言われていました。喧嘩した時とかではなく、冗談でさりげなく言ってくるのです。心に深く突き刺さりました。私は日本で生きているのに、これからもきっと日本でいきていくのにって、思ってましたから。

自己表現をしてみたい

元気そうな笑顔を浮かべる日系ブラジル人3世の落語家らむ音さん(「落語オフィス ひら」提供)

――美大に進みますね。
 将来どうしていいかわからずに不安だったのですが、美術の時間がすごく楽しかった。それに美術の先生が親身になって心配してくれました。学校嫌いではなかったけれど毎日遅刻ばかりしていたので、「このままだと退学になるよ」と言われましたし、「あなたは美術の時間好きでしょう、美術大学とか興味ない?」と、先生が提案してくれました。その先生と出会ってなければ、美大進学という選択はなかったと思います。
 美大ではデザインを学び、将来はインテリアデザイナーになりたいと思っていました。大学2年生、3年生の春休みにオーストラリア2か月、アメリカ3か月、留学させてもらいました。デザインについて学びたいという思いもありましたが、英語を学びたいという気持ちもありました。そこでいろんな人と出会い、たくさんの刺激を受けました。
――刺激ですか?
 ダンサーを目指している人、映画監督になりたい人とかミュージシャンになりたいという同世代の方たちがいっぱいいて刺激をもらって。美術デザインという世界だけではなく、もっと自己表現してみたいという気持ちが湧いてきたんです。今までダメだ、あなたには無理と周囲からずっと否定されてきた反動だったのか、彼らを見ていて、自分から発信する表現をしてみたいと思うようになったんです。
 アメリカで映画監督になりたいという中国人の女の子と出会って、彼女が大学の課題で映画を制作することになったんです。彼女から役者として出演してほしいって言われて……。役者なんてやった経験はないし戸惑いました。でも友人から大丈夫だからやってよと何度も頼まれ、結局出ることにしました。
 役は主人公の恋人役でした。そこで演じることに面白さっていうか楽しさを感じたんです。留学で知り合ったアーティストを目指す仲間は厳しい批判をズバズバ言うんです。私の演技を見て、いいよ、すごいよって言ってくれた。私も調子に乗ってよしいけるかもなって思ってしまった。
それで日本に帰って役者の勉強をできるところを探しました。とにかく経験しなければ何もわからない。アルバイトでエキストラの仕事をしたり、舞台のオーディションを受けたりしていました。そこからどんどん面白いなって思うようになりました。小劇場の舞台にも立てるようになりました。大学を卒業しても、就職はしませんでした。デザインの世界とはまったく違う世界ですが、自己表現という意味では同じで、両親にはそう説明して納得してもらいました。親からは「成功する人としない人の違いは、挑戦するかしないかなんだよ」と聞かされてきました。私は挑戦してみようと思いました。
――そして、らぶ平師匠と出会うのですね。
 芸能の世界をもっと知りたかったので、芸能界に詳しい友人を介して紹介していただきました。当時、私は舞台役者として活動していたのですが、その際、師匠から言われたことは、「もっと幸せになれる道が他にいくつもあるよ」でした。出会いから数日後、舞台に出演する予定があったので、失礼かもしれないと思いつつ、師匠にお伝えしたら、見に来てくださいました。舞台後すぐにお礼の挨拶をしに行ったのですが、その際に師匠からは、「下手だね、楽しいの? なんの意味があるの?」って言われ、もうびっくりしました。そこまではっきり言われるとは(笑)。

落語は良くも悪くも自分次第

高座から挨拶する落語家らむ音さん(「落語オフィス ひら」提供)

――普通ならお世辞でも「よかったよ」くらいは言ってくれると思うのですが(笑)、厳しい批判をした師匠の元にどうして弟子入りをするようになったのでしょう。
 後日、またお会いした際に、「落語家になるのはどうだ」と聞かれました。えっ、なぜと思いました。「君が一生懸命なのはわかった。でもあれではもったいない。落語はいいぞ、一人でプロデューサー、監督、主役、脇役、全部できるんだ。良くも悪くも自分次第、それって楽しくない?」って。それまでに落語を聴く機会があるわけでもなく、正直、落語って着物を着たおじさんが難しい言葉を使って、長々と話すつまらないものだと思っていました(笑)。
 その後、実際に落語ってどのようなものなのか、らぶ平師匠の落語を聴かせていただきました。それはもう衝撃でした。つまらないと思っていたのにお腹を抱えて笑っている自分がいました。座布団の上に正座して、動きを制限されている中で話をしているのに、細かい動作や表情、声を使い分けて、その場の雰囲気を創り上げ、噺に出てくる人物やその感情を聞く相手に想像させてしまうのです。落語は無限大に広がる表現方法だと思いました。
――それで師匠に入門ということになったのですか。
 迷っている自分がいたのですが、師匠の落語を聴き、これだと思いました。聴いている人が皆笑顔になっている。心の中から語りかけている言葉で人を笑わせている。この人の下で人を笑顔にする方法を学びたいと思いました。それで弟子入りを決意し直訴しました。ところが落語についてはまったく知らない。何か目立たなくてはいけないと思い、逆立ちまでして自分をアピールしました。
――それで修行の日々が始まったのですね。
 最初に教えられたのは正座でした。落語は長い時間正座できないとお噺ができません。痺れ過ぎて、足の感覚が麻痺し、それでもどうにか歩くことができるようになりました。二、三分すると、血行が元に戻り出して、あの時の足がジンジンする感覚は叫びたくなるくらいです。
 落語は師匠が目の前で演じるのを、真似ながら覚えていきます。録音し文字に起こしたり、映像に撮って、それを自分でやって覚えていきます。弟子になったばかりの頃は、深夜の宅配便の荷物の振り分けの仕事をしていましたが、休憩時間にはメモ用紙を広げて必死に暗記していました。
 暗記すると、今度はそれを自分の部屋で繰り返しやってみました。部屋には私しかいません。ブツブツ呟く声や、高らかな声で笑ったり、メソメソ泣いたりする声が部屋から外にもれていきます。妹が二人いますが、部屋から漏れてくる声に「大丈夫なの、お姉ちゃん?」なんてよく心配されていました。

言葉は武器よりも強し

――言葉のハンデもあり、大変ではなかったでしょうか。
 落語には日本の歴史的な言葉だったり、いまはもうなくなってしまったものなどがよく出てきます。
 落語には欠かせない手ぬぐい、扇子――「それってなに?」。ご隠居様――「ワタシ知らなーい」といった感じで。「四ツ辻」「火の見櫓」もそれが何を指すのかもわかりませんでした。師匠が稽古をつけてくれているのに、始めた頃はもうトンチンカンなことばかりでした。廻船問屋の越後屋は、海鮮丼屋だと思っていたくらいです。でも、師匠からは言葉を知らなかったことを理由に叱られたことはありません。
――弟子入りから半年後、銀座ブロッサムホールで900人もの観客がいる中で、師匠の前座を務めましたね。
 緊張しました。今まで稽古してきたことを出し切るだけで精一杯でした。挨拶の中では皆様に楽しんでいただけるようにとか、今日来ていただいて本当にありがとうございますとか挨拶して、ネタは前座がやってはいけない真打噺の『徂徠豆腐』をもう集中して間違えないようにやるのに必死でした。
――日本語、英語、ポルトガル語の3ヵ国語を駆使した『寿限夢』が得意ネタの一つになっていますが、これはどのようにして生まれたのですか。
 ランチをよく食べに行くカレー屋さんがあったんです。オーナーはインド人で、従業員もインド人。落語好きのオーナーが、私が落語をしているのを知って、お店でやってほしいということになったんです。2週間後、お店の前にポスターが貼られていて、入ると店内の一角に高座らしきものが用意されていました。
 でもお客さんはカレーを食べていました。そんなところで、突然、落語を始めたら迷惑ですよね。日本人の他に、フランス人、オーストラリア人、アメリカ人、イギリス人の留学生グループが食事をしていました。師匠がその場の雰囲気を見てとって、「らむ音、あの外国人4人の席に向けてやってみなさい」とアドバイスしてくれました。無茶ぶりでしたが、もうやるしかないと思って、私はブラジル人だけど、これから落語をやりますと英語で説明してから始めたんです。
 落語を英語交じりでやったんです。最初は食べることに夢中だった4人が私のほうを見てくれて、気がつくと笑っているんですよ。日本人のお客さんも食事の手を休めて私の話を聴いている。終わった時には、皆が拍手してくれるし、日本語のできないカレー店の従業員も皆笑っていた。それでこれはいけるなって思いました。それが『三ヵ国語寿限無』に挑戦する契機になりました。
――二つ目に昇進した時はどんな思いでいたのでしょうか。
 昇進披露公演を、立川談四楼師匠、春風亭勢朝師匠、立川只四楼兄さん、そして山田隆夫さんらが見守るなかで開くことができました。これからも挑戦し続けようと決意を新たにしました。「礼儀正しく、落語を世界へ、スターになれ」と師匠との約束を果たしたいと思っています。
――どんな落語を目指すのでしょうか。
『ほうむすてい』という新作落語を創りました。これはブラジルの少年が日本の家庭にホームステイした時に起きるドタバタ劇なんですが、オチは文化的にまったく異なる二人が最後は友だちになるといった内容です。

初々しさ漂うらむ音さん(「落語オフィス ひら」提供)

 私自身、こんな落語を目標にしているんだと明確に語れるものはまだありません。でも、自分のこれまでの経験から、言葉は武器よりも強いと思っています。時には言葉は武器よりも人を深く傷つけるし、いつまでも心に残る。でも、それを癒すのも言葉だと思っています。
 私のように日系ブラジル人を両親に持って日本で生まれた子ども、あるいは親に連れられて小さい頃来日し、さまざまな苦労をしてきた子どもたちの前で落語を披露したことがあります。キラキラした目で聴き入ってくれました。「らむ音の落語を聞いて元気になったよ」「癒されたよ」「勇気をもらったよ」って言ってもらえる、そんな落語を目指したいと思っています。

落語家 らむ音
●らむね 1993年横浜生まれ。父は日系ブラジル人2世、母は3世。2016年、武蔵野美術大学卒業。17年、らぶ平師匠の落語を聞いたのをきっかけに弟子入り。18年初高座、22年二つ目に昇進。23年、ZABU1グランプリ(BSフジ)で準優勝。古典落語の他に、日本語、英語、ポルトガル語を取り入れた作品もある。

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