小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=155

「蛍火は、死人の人魂だって聞いたけど、ほんとなの?」
「いや、そんなこと、あるもんか」
「わたし、恐い」
 良子は信二の腕にすがった。籾を背負っていた信二は少しよろめいたが、彼女が自分に寄り添ってくれたのは嬉しかった。
「あら、また一匹飛んできたわ。さっきの蛍と同じ方向に下りてゆくわ」
「蛍同士が恋をしているんだよ、きっと」
「あら、嫌だわ」
 そう言う彼女の気持ちを計りかねた。水車小屋の中は糠の匂いが立ち込めていた。天井に支えられた丸太の杵が、動作の鈍い動物のようにバタン、バタンと上下運動をしていた。信二は上死点に達した杵の握りを手際よく止め鈎に引っ掛けた。辺りが急に静まり、虫の音が聞こえた。
 信二は臼の中の米を小さい缶で袋に移し、運んできた籾を臼に入れた。
「これで用事が済んだな」
「おかげで、助かったわ」
 二人の視線が合った。信二は何かを言いたかった。話すことが山ほどあるような気がした。蛍が愛を求めて淵に沈んでいったように、二人きりのこの小世界で思いきり抱擁してみたかった。愛の囁きが可能なように思えた。
 信二は、小説で読んだことのある愛の世界を心に描いてみた。二人はもつれ合って草むらの中に身を横たえ、唇を合わせた。歯と歯がかち合った。彼女が少し開いた歯の間に信二は舌を滑り込ませた。やがて信二はシャツを取り、相手の下着をはずし、一糸まとわぬ男女となって、思う存分愛を確かめ合う。想像するだけでも信二の血はたぎった。しかし、ずっとしょげ続けている良子の動作を見てきた信二には、自分一人の突飛な想像をぶっつけることはできなかった。
「もう帰ろう」
 信二は袋詰めした糠混りの米を背負って歩き出した。川辺からの登り坂はきつかったが、二人にとっては楽しい時間でもあった。
「あのね」
 良子は急にあらたまって、心配げな声で言った。
「わたしマラリア病にやられたみたい」
「今は乾燥期だろう。マラリアは雨期に罹るものというぞ」
「去年の雨期から妙だったのよ。ずっと前のものが今になって発病することもあるんじゃない」
「俺には解らん。熱が出るんかい」
「この前から、一日おきに悪寒がきて、やりきれない熱が出るの」

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